ステーション1 アブラハムの宿営 ―もてなし―(前半)
- 2020.03.04
- アブラハムの子供たち
歴史的背景
4000年前、世界四大文明の一つで、「メソポタミア」と呼ばれる地方がありました。現在のシリアの東、トルコの南東、イラクを含む地域です。北はタルススの山々から南はペルシャ湾まで、東はザグロス山脈から西はシリア砂漠まで広がっていました。南北約480km東西約240kmです。メソポタミアとはギリシア語で、「川の間の土地」を意味し、その名の通り、チグリス川とユーフラテス川の間にありました。
メソポタミアはまた、肥沃な三日月地帯とも呼ばれます。チグリス・ユーフラテスの氾濫(はんらん)で、栄養分豊かな土が運ばれてくるため、土壌は肥沃でした。中東地域で最も恵まれた農業地域であり、周辺民族はこの地方を獲得するために絶えず争っていました。
紀元前3500年以前にこの地域に住んでいたのは遊牧民でしたが、土壌が豊かになってくると、農業が発達し、人々が定住するようになりました。共同体ができ、共同体は発展して都市国家となり、文明が生まれました。都市国家は、中心となる街を厚い壁で囲み、敵の侵入を防いでいました。また、それぞれの都市国家には守護神がついていて、神殿を中心として街が形成されました。神殿の周辺は人口密集地となり、村や農地はその外側に作られました。村や農地は交通網によって、神殿とつながっていました。
メソポタミアの南部は、シュメールとも呼ばれます。最も強力な都市国家はウルで、ペルシャ湾近くのユーフラテス川沿いにあり、紀元前3500年から1850年まで、貿易と商業の中心地として栄えました。住民には豊かな土地所有者もいましたが、大半は労働者階級でした。織物職人、造船業者、武器製造の職人、陶器師、宝石商、彫刻師、漁師、金物の職人などです。ウルが豊かになり繁栄したのは、この熟練した労働者たちが懸命に働いたおかげです。
ウルなどメソポタミア都市の中心には神殿があり、ジッグラトと呼ばれていました。ジッグラトは天と地、そして神々と人を結ぶ場所だと信じられていました。バベルの塔もジッグラトだったと言われています。
人々は宗教に熱心で、神々に仕えることが生きる目的になっていました。彼らの教えによると、最も力があるのは世界を創造した4つの神で、その4神が自分より小さな神々を作ります。この小さな神々は、姿も行動も人間に似ていました。怒りや嫉妬など、人と同じ感情を持っていると考えられていたのです。
メソポタミアの生活では、神々を満足させることがとても大切で、神々を慰める長い儀式が毎日行われました。気性の激しい神はいけにえを求めるとされ、動物、穀物、食べ物、ときには人の命が捧げられました。また、新しく生まれる神々の性格を理解し、その名前を知っておくことはとても重要でした。そうすれば、個人、家族、そして共同体に恩恵がもたらされると信じられていたのです。
家庭生活は、極めて重要な位置を占めていました。父系家族なので、権利や遺産は父から息子に受け継がれました。しつけは厳しかったものの、家族は温かく愛にあふれており、特に父と息子、母と娘は親密な関係を結びました。
男性は基本的に家業を継ぎます。財産の管理や、商品・サービスの売買は、男性の役割です。女性は、働くこともありましたが、多くの場合は、家庭を切り盛りし、娘たちに家事を教え込むのが、女性の役割でした。子供たちは親の強い権威のもとにあり、結婚はすべて家長が決めました。親が子供を手放したり、借金返済のために売ったり、怒れる神々に捧げてしまうこともありました。また、養子を取ることもあり、養子は実子と同じ権利を持っていました。
男子は学校に行き、女子は家庭で母親から学びました。学校の授業は、日の出から日の入りまで、月25日間、一年を通して行われました。指導は非常に厳しく、生徒は間違うと叱責され、棒で叩(たた)かれ、みんなの前で屈辱的な目に遭わされました。
学校に通う生徒が、将来就きたい職業のナンバー1は、書記です。高給で地位の高い仕事だったからです。しかし生徒たちは、書記の仕事に直接は関わらないような科目、例えば、数学、生物、経済、農業、法律、天体学なども、学んでいました。
メソポタミア文明が世界にもたらした恩恵は、数え切れません。例えば、初めて言葉を文字にしたのはシュメール人でした。最初の書き言葉はメソポタミアで作られ、他の文化圏へと広がったのです。また、数字の体系と60進法が作られ、私たちは今でも、1時間が60分、1分が60秒、円は360度といった形で、それを用いています。さらに、カレンダー、地図製作の技術、時計、手術や処方を含む洗練された医療体系が作られました。
車輪、彫刻用具、のこぎり、滑車など、多くの道具も発明されました。これらの道具によって建築技術が発達し、ジッグラト建設が可能になったのです。肥沃な三角地帯の生活では、宗教が最も大切であり、発明された最新の道具も、神々の宮を作るために用いられました。人々は、非常に多くの神々を崇拝しており、典型的な「多神教」でした。
この多神教文化のただ中で、神は歴史に介入されました。神の友でありユダヤ人の父であるアブラハムは、この環境の中に生まれ育ったのです。ユダヤの賢人たちの教えによれば、アブラハムの父テラは石や金属で偶像を作る職人でした。
メソポタミア人は、神々の霊が石の偶像の内に宿っていると信じていました。ですから、神殿で神々を崇拝しただけではなく、家の中にもたくさんの偶像を置いて、豊穣(ほうじょう)や安寧を祈願していました。また、偶像に自分の霊を宿らせることができるとも信じていました。神殿礼拝や儀式に出られない時には、代わりに偶像を置いて参加することもありました。このような状況なので、偶像職人の商売は繁盛し、職人は大切にされていたのです。
ですから、唯一真(まこと)の神がアブラハムに現れたとき、彼がどんなに当惑したか、想像に難くありません。この新しい神を迎えたとき、彼の考えは根底から覆され、父との関係に溝が生じたことでしょう。唯一神を信じてから、アブラハムは父親の職業に不信感を持つようになっていったと、ラビたちは教えます。
ある日彼は、父の偶像の店に入り、大きなハンマーで偶像を次々に叩き壊しました。そして、最後のひとつだけを壊さずに残しておき、その偶像の手にハンマー握らせました。店に来た父はそれを見て怒り、なぜこんなことをしたのかと詰め寄ります。アブラハムは自分ではないと答え、残った偶像が他の偶像全部を壊したのだと主張します。「そんなばかげたことがあるか」と父は叫びます。「石で造ったいのちのない神に、いったい何ができるというのか」。アブラハムは答えます。「ならば、石で造ったいのちのない神を、なぜ神だと信じられるのですか」。
唯一真の神を信じているのは自分ひとりだという状況は、アブラハムにとって大変だったに違いありません。しかし、アブラハムが神の声に聞き従ったことを、聖書は明確に記録しています。さらに、神はアブラハムに、未知なる土地へ出て行くよう命じました。彼はその命令に従って、安全な家と父の家族を離れ、流浪の大家族の家長となりました。175歳で死を迎えるまで、彼は異教の偶像崇拝者の中に住みながら、神は唯一であるという真理を信じ、子孫に受け継がせたのです。
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