ステーション3 シナイ山(付録)

ステーション3 シナイ山(付録)

テフィリン

「このことは手の上のしるしとなり、あなたの額の上の記章となる」出エジプト記13:16
「これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい」申命記6:8
「あなたがたは、わたしのこのことばを心とたましいに刻み、それをしるしとして手に結び付け、記章として額の上に置きなさい」申命記11:18

この御言葉に基づき、ユダヤ人は朝の祈りやシナゴーグでの礼拝の時に、テフィリン(聖句箱とも呼ばれます)を身に着けるようになりました。テフィリンは皮革でできた箱で、2つあります。テフィリン・シェル・ローシュ(頭のテフィリン)と、テフィリン・シェル・ヤド(腕のテフィリン)です。前者は額に、後者は腕に、皮のひもで結わえつけます。腕のテフィリンは、右利きの人は左腕に、左利きの人は右腕に巻きます。それぞれの箱には、4つの聖句が書かれた巻物が入っています。出エジプト記13:1~10、13:11~16、申命記6:4~9、6:13~21です。

この習慣がいつできたかは不明ですが、ユダヤ教のごく初期の時代には存在していたと、学者の多くは考えています。テフィリンに関する最も古い記録は、クムランの死海文書の中にあります。非常に良い状態で発見され、第二神殿時代のテフィリンに関する重要な情報が含まれていました。主イエスがどのようなユダヤ教的生活を送っていかもわかり、クリスチャンにとっても非常に興味深い資料です。また、ヨセフスもテフィリンの習慣を記録しています。主イエスの時代には、イスラエルの成人男性はみな身に着けていたことがわかっています。

テフィリンの名の由来については、ユダヤ人の間でも一致していません。研究者の多くは、「祈る」「とりなす」という意味の「パラル」という言葉から来たと、考えています。「パラル」からは、「祈り」という名詞のテフィラーという言葉が派生しています。しかし、「離す」「離れる」という意味のパラーから来ていると唱える人もいます。テフィリンを着けることで、ユダヤ人が地上のすべての民族から区別される、というのです。

ユダヤ教には様々なグループがありますが、テフィリンを着ける習慣に関しては驚くほど一致しています。着けるときには、次のように祝福の祈りをします。「世界を創られた、我らの神、主。我らを御言葉によってきよめ、腕と頭にテフィリンを着けるよう命じてくださった主が、ほめたたえられますように」。テフィリンはすべて、きよいとされる動物の皮から作られなければなりません。テフィリンのひも、御言葉が書かれた巻物も同様です。13歳以上の男子は、朝の祈りのときにこれを身に着けます。女性がテフィリンを身に着けることは、命じられてはいませんが、禁じられてもいません。それゆえ現代のシナゴーグでは、男性だけでなく女性がテフィリンとタリットを身に着けているのを目にします。

クリスチャンである私たちは、テフィリンを身に着けることはありませんが、そこから学ぶべきことが多くあります。テフィリンを着けることは、神の贖いを思い起こすことです。贖いが私たちの「着物」となるべきだと、ラビは教えます。テフィリンを朝の祈りで身に着けることで、一日の最初に、思いを神に向けるのです。そして、主の知恵を学び、善を行うことに心を集中させます。テフィリンを着けることは、神にひたすら心を向けることです。それゆえ、新郎は結婚式の日にテフィリンを着けることが禁じられています。その日はそもそも、花嫁を思う気持ちでいっぱいなので、神への集中ができないからです。

タリット

「身にまとう衣の四隅に房を作らなければならない」申命記22:12
「主はモーセに告げられた。『イスラエルの子らに告げて、彼らが代々にわたり、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように言え。その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神に対して聖なる者となるためである。わたしが、あなたがたの神、主であり、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。わたしはあなたがたの神、主である』」民数記15:37~41-

古代、ヘブル人の男子はみな、大きな正方形の外套を衣服の上に羽織っていました。今日に至るまで、中東の砂漠に住む人々は外套を身に着けています。それは、モーセや主イエスの時代と同様、羊毛や亜麻布でできたものです。上記の聖書箇所において、神はイスラエル人に房を作るように命じられましたが、それは外套の隅につける房のことで、ヘブル語でツィツィと言います。神の命令と、神が民とともにおられることを、いつも思い起こさせるためのものです。

時代を経て、人々は四隅のある外套に代わって、現代風の服を着るようになりましたが、民数記と申命記の命令に従うため、今日「タリット」(祈りの肩掛け)として知られるものが作られました。現代の祈りの肩掛けは、大きさ、色、素材において多様です。それでも、四隅にツィツィをつけるという特徴は、みな同じです。

ツィツィは、モーセがシナイ山で受けた613の命令を表すために、決まったやり方で撚り合わせ、結んであります。目に見えない神の存在と命令を、手に触れられるものにし、思い起こすためです。当時の職人の中には、自分独自のやり方で房の糸を一本結び、自分の作品の「サイン」にしていた者もいました。最も偉大な職人である神も、ユダヤ人がご自分の作品であることの「サイン」として、ツィツィをお与えになったのでしょう。興味深いことです。結び目が作者のしるしとなったように、ツィツィが造り主である神のしるしとなり、ユダヤ人が神の契約の子孫であることを明らかにしたのです。

タリットは外套ですので、他の衣服と同様、上下がきちんと決まっています。それゆえ、現代のタリットはアタラー(王冠)と呼ばれる帯の部分がついており、タリットを着ける際いつも上に来るようになっています。アタラーには、たいてい非常に美しい刺繍(ししゅう)が施されています。タリットを身に着けるときはいつも、次の祝福の言葉を唱えます。「世界の王であられる我らの神、主がほめたたえられますように。主は戒めを通して我らをきよめ、タリットの房で我らを覆うように、命じられました」。

古代、タリットは成人男性が着けるものでした。しかし今日、ユダヤ教の中でもグループによって異なります。着用を男性に限定する共同体もあれば、既婚男性のみというグループもあります。子供に着用させるところもあれば、女性を含めた全会衆というところもあります。敬虔なユダヤ教徒だった主イエスも、おそらくツィツィを着けていたというのが、今日の学者らの見解です。マタイ9:20~22の「房」、マルコ6:56の「衣の房」が、それを証拠立てています。

タリットもまた、キリスト教の伝統にはないものですが、ここから学べる教訓はたくさんあります。ラビたちによると、タリットを着ることは、神とその御言葉の聖さに包まれることを意味します。ツィツィに身を包むとき、神がともにおられることを思い起こすのです。タリットはそのための非常に効果的な方法です。タリットはまた、「責任の肩掛け」と呼ばれます。すべての道において神をほめたたえ、神の願いと命令に従って生きるという責任を忘れないようにするのです。

メズザー

「これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい」申命記6:9
「それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい」申命記11:19

メズザーの起源は不明です。メズザーというヘブル語は、本来「門の側柱」という意味ですが、今日「メズザー」というと、門の側柱に付ける「入れ物」を指します。出エジプト記12:7などでは、門の横木という意味で、「鴨居」と訳されています。
メズザーは、部屋、家、門の右側の柱に取り付けます。メズザーには、申命記6:4~9と11:13~21を書きしるした羊皮紙が収められています。伝統的には22行で書き、その羊皮紙を丸く巻いて入れるのです。そして、柱の上部(上3分の1)に、内側に傾けて付けます。家の入口と、家の中の「生きる」ために使うすべての部屋の入口に付けますが、トイレや倉庫の入り口に付けてはならないという決まりもあります。
たいていの地域では、シナゴーグや公の建物の入り口にメズザーが設置されています。イスラエルでは、あらゆる政府の建物やオフィスの入り口に付けられています。建物に出入りするときに、メズザーに口づけをしたり、指に口づけをしたりすることが、ユダヤ人の習慣になっています。

メズザーの習慣がいつ始ったかは不明ですが、残っている最も古い証拠は、第二神殿時代のものです。クムランで発見された実際のメズザーの巻物や、その他の考古学的な記録から、主イエスの時代には、一般社会に広まっていたことがわかります。メズザーは最も広く、今日まで守られてきたユダヤ教の習わしです。

アメリカでは、メズザーは30日間家に住んでから取り付けますが、イスラエルでは住み始めてすぐに付けます。メズザーを取り付けるときにはたいてい儀式を行い、次のような祝福の言葉を唱えます。「世界の王である我らの神、主がほめたたえられますように。主は御言葉をもって我らをきよめ、メズザーを付けるように命じてくださいました」。メズザーの書かれた羊皮紙は、7年に2回点検し、まだ読める状態にあるかどうか確認します。

クリスチャンで家にメズザーを付けている人もいますが、まだまだ一般的ではありません。しかし、私たちに、良い教訓を与えてくれます。メズザーは入り口に付けるものです。クリスチャンもまた、家を神のために聖別されたものとする責任があります。また、それは入り口を「見張る」ものです。私たちは、神を排除した社会の影響から、家や家族を守らなければなりません。さらに、メズザーは家を出入りするとき、必ず目を留めるものです。私たちはどこへ行こうとも、神の御心とその言葉に従います。それはまた、私たちが行くところどこにおいてでも、神の約束がともにあるしるしとなり、主を尊んで生きるようにと、私たちを押し出してくれます。

タルムードによると、神はユダヤ人を愛し、7つの教訓で彼らを囲み、罪から守っておられます。7つとは、4つのツィツィであり、2つのテフィリン、そしてメズザーだというのです。「テフィリンを額に置き、ツィツィを衣服の上に着け、メズザーを門柱に付けている者は誰でも、罪に勝つ力が与えられる」と言われます。
テフィリン・シェル・ローシュは、私たちの心を、神とその知恵を学ぶことに集中させます。テフィリン・シェル・ヤドは、私たちの手がひたすら良いわざをなすよう導きます。メズザーは、私たちがどこへ足を運んでも、神とその言葉に従うべきことを思い起こさせるのです。ツィツィに包まれるとは、神の聖さと臨在に包まれることです。
クリスチャンにとってこれらの教えは、生活のあらゆる領域を神に捧げ、御言葉に従うことの目に見える例となります。私たちは常に神の臨在の内に生き、その聖さに力づけられ守られて、「罪に勝つ」ことができるのです。