ステーション4 荒野の礼拝

ステーション4 荒野の礼拝

歴史的背景

エジプトから「約束の地」までの40年間、イスラエルの民はどのようなルートを通ったのか。それは、学者の間でも意見が一致していません。民数記には、荒野をさまよう民が宿営した場所が50か所近く記されてはいますが、それらは当時の地名であり、のちに定住した人々がつけた名とは異なるからです。ただし、どの研究者も、民が通ったルートが「遠回り」だったことについては、一致しています。

モーセは12名の斥候(せっこう)を送って、カナンを偵察させました。その中に、ユダ族のカレブとエフライム族のヨシュアがいました。40日にわたって、斥候たちはその地を注意深く探索し、情報を収集し、「約束の地」の産物をサンプルとして持ち帰りました。しかし、偵察から戻ったあと、その地を占領しようと言ったのは、ヨシュアとカレブだけでした。他の10名は、その地には背が高く強い民がおり、町々は城壁を持ち、堅固な要塞(ようさい)となっている、と報告しました。ヨシュアとカレブはその地を手に入れたいと切に願い、神の助けがあればイスラエルは必ず勝利できると、人々を励ましました。しかし民数記14章には、全会衆がモーセとアロンに不平を言い、その地に入ることを拒んだと書かれています。

この不信仰のゆえに、カナンの地に入ることを許されるまで、イスラエル人は40年間荒野をさまようこととなりました。カナンの地を偵察した1日につき1年です。放浪の旅を始めたとき成人だった人々で、40年後、「約束の地」に足を踏み入れることができたのは、ヨシュアとカレブだけでした。しかし、この40年が新しい国の建設と繁栄には必要だった、という意見もあります。イスラエルの民は、400年近くにわたってエジプトで奴隷状態だったので、新しい国を建て上げるのに必要な勇気や決断力が欠如していました。荒野でさまよう苦しみの中で生まれ、勇気や決断力を培った新しい世代の登場が待たれたのです。

教えるための情報

モーセはシナイ山で神から授けられた律法に基づいて、全く新しいことを民に教えました。それは、幕屋を中心として神に仕えることです。幕屋は、人々が心から喜んで捧げた物を用い、シナイ山のふもとに1年がかりで設営されました。生ける神の最初の住まいです。完成の日、神は輝く雲の柱の中に現れました。「そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた」(出エジプト記40章34節)とあります。この会見の天幕は、500年にわたり、ユダヤ人の礼拝の中心となりました。そこは、全能の神がモーセと語られる場所であり、また、人々のためになだめの供え物が捧げられる場所であり、礼拝が執り行われ、アブラハム、イサク、ヤコブの神への敬意が払われる場所でした。

天幕は、建てたり解体したりすることができたので、移動させることが可能でした。イスラエルの人々の捧げ物で飾られ、金、銀、真鍮(しんちゅう)、青色の撚り糸、紫色の撚り糸、緋色の撚り糸、やぎの毛、赤くなめした羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、油、香料、宝石が使われます。外側、庭、聖所、至聖所から成る、美しい天幕です。庭には青銅の祭壇、聖所には供えのパンのための机、燭台、香の壇、大祭司の使う洗盤があり、そして、至聖所には契約の箱と贖いのふたがあります。そのひとつひとつが、神の贖いの計画をいつも思い起こすために存在していました。

学びの進め方

ステーションリーダーは、イスラエルの祭司の役になり、荒野にある天幕の庭へと生徒を招き入れます。アシスタントはもうひとりの祭司でも、しもべ役でもよいでしょう。出エジプト12章、民数記33章1~48節、申命記34章を読んで、イスラエルが荒野をさまよった場面や、天幕を建てた場面をよく理解しておいてください。

生徒を会見の天幕へ導き、座らせてください。自分はレビ族の祭司であると自己紹介し、こう説明します。「私は神と人との仲介者として仕えています。あなたがたを迎え、幕屋の教えを学んでもらうことを嬉しく思います。この地域、つまり中東の地域の民族は、みな多神教です。その中で一神教を保っていくのは大変なことです。私はそのために、大きな責任を感じながら仕えています」。

「モーセから天幕づくりについて学んだとき、心が踊りました。人々が捧げ物を携え、職人がひとつひとつの部分を作り上げていくのを見て、どれほど感動したことか。民はそのすべてを進んで行い、生ける神に仕えることを心から喜んでいたんですよ」と語ります。

天幕には、礼拝に用いられる美しい道具が、多くありました。例えば、金の燭台について話すとよいでしょう。祭司が仕えるとき、灯火がゆらめき、聖所の隅々まで美しく照らします。40kgほどもある純金製の燭台です。祭司の仕事は、燭台に常に火を灯しておくことです。毎朝晩、燭台には純粋なオリーブ油を満たさねばなりません。もし持っていれば、実際の燭台(7枝のもの)を生徒に見せてください。もし持っていなければ、ピクチャーカードの6を見せましょう。この写真は幕屋の燭台の模型です。本物はさらに大きく壮麗です。

出エジプト以前は、家族の中で父親と長男が祭司となり、定められたやり方に従って祭壇を築き、いけにえを捧げていました。アブラハム、ノア、そしてヨブの話からは、族長が祭司となっている例が多く見られます。しかしながら、幕屋が建てられるとともに、神は民の代わりに幕屋で仕える家系を選び、新しい祭司の制度を定められました。新しい祭司は、祭司服を着ることになります。人の目を引く壮麗な衣服であり、作り方も神が自ら指示されました。

「大祭司の服を着ることはとても光栄なことです」と語り、生徒をひとり指名して、準備した服を着せ、大祭司のモデルとします。ピクチャーカード5にある指示を読み、祭司服の各部分がどんな重要性を持っているか、説明します。祭司服を作れなければ、ピクチャーカードを使って同じ内容を紹介するだけでもいいでしょう。

最後に、祭司が唱える祝福の言葉で、学びを閉じます。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」(民数記6章24~26節)。

雰囲気づくり

教える場所の後ろに布やシーツをかけて、背景をつくってください。しま模様が入っているものを使ったり、布や塗料を使ってデザインを施したりして、天幕の外幕の雰囲気を出すのもいいでしょう。

色のついた布をかぶせた小さな机を2つ、シーツの前に置いてください。その上に7枝の燭台か、ろうそくを立てた真鍮のキャンドルスティックを、立ててください。祭司が使うような真鍮や陶器の道具を周りに置いたり、羊や植物などを板や段ボールに描いたりすることで雰囲気を出すのも一案です。

生徒が座れるように、マットを床に敷きます。マットは、布の敷物や、わらで編んだ敷物にしましょう。

衣装

祭司役は、くるぶしまで届く白い服を着て、様々な色が入ったひもをベルトとして腰に結びます。写真を参考にし、布か厚紙で頭の覆いを作ります。アシスタントも祭司役であれば、同じような衣装を着ます。アシスタントがしもべ役なら、聖書時代の典型的な服を着て、頭の覆いをかぶります。足は裸足です。

ピクチャーカード5 イスラエルの大祭司

古代イスラエルの祭司とは、神に仕え、神殿で儀式を執り行う人々でした。近隣にあった多神教の神殿とは異なり、エルサレムの神殿は、神は唯一であるというイスラエルの信仰を保つ神殿でした。祭司の職は、レビの氏族から世襲で受け継がれます。

神殿における一般の祭司の役割で最も大切なのは、祭壇で日々のいけにえを捧げることです。しかし「大祭司」は、大祭司にしか許されない特別な奉仕をしました。罪のためのいけにえを捧げ、その血を聖所へ持っていくという働きです。年に一度の大贖罪日に、民の罪の赦しを求めるために、聖所と至聖所の間の幕を通って至聖所に入るのです。そこに入れるのは、大祭司だけでした。

一般の祭司は、白い羊毛か亜麻の撚り糸でできた服を着ました。それは、4つの部分に分かれています。まず、くるぶしから手首まで覆う、上着。そして、同じ布でできた帯を、腰に締めます。上着の下には、亜麻布でできた、ももまでの長さのズボンを穿(は)きます。頭には、ターバンである亜麻布の覆いをかぶります。大祭司は、もっと手の込んだ服を着ていましたが、いくつかの儀式では、普通の祭司と同じ白の衣装を着けていました。

古代、大祭司が、専用の服を着るのは、至聖所においてのみでした。その美しく精巧な服をすべての奉仕で着るようになったのは、主イエスの時代になってからです。その服は、神の偉大さや素晴らしさを表すだけでなく、人々に聖さを求めるよう促す意味も持っていました。素材である羊毛、亜麻布、金の糸は、大祭司の服の他には、聖所と至聖所の幕にしか使われません。神の聖さを思い起こさせるように、それらの特別な素材が使われるのです。

大祭司は日常、普通の祭司と同様の白い服を着ますが、大祭司はその上に、鈴やザクロで飾られた羊毛の上着を着ます。さらにエポデを着けます。エポデは特別な青いベストで、胸の部分は、金色の布か羊毛、亜麻布でできた、プレートになっています。それは、「手幅×手幅」(21cm四方くらい)の大きさであり、12の宝石がはめられています。それぞれの石にはイスラエルの部族の名前が彫ってあります。エポデの肩当てには、しまめのうがはめこまれ、そこにも12部族の名前が彫ってあります。大祭司がかぶる法冠と呼ばれる帽子は、普通の祭司がかぶるのと同じターバンですが、美しい装飾を施されているところが違いました。かぶりものの前には、ヘブル語でネゼルと呼ばれる部分があり、それは「主の聖なるもの」と彫ってある純金の板です。大祭司にとって、外側の服を着ることそのものが、礼拝となります。(出エジプト記39章参照)

新約聖書には、主イエスを信じる者たちが祭司であり、主イエスご自身が大祭司であると書かれています。古代の神殿で大祭司が行っていたことと、主イエスのなしてくださったことは、非常に似ています。大祭司は、罪のための捧げ物をし、聖所に入り、神の御前に血を携えていくことのできる唯一の人です。至聖所に入って神の前に立ち、民の罪の赦しのために捧げ物をしたのは、大祭司なのです。大祭司はそのとき、イスラエルの民を心に置き、また肩に置いて運びました。クリスチャンは、主イエスが十字架の死を通して、私たちの罪のためになだめの捧げ物をしてくださったことを思い起こします。主イエスはその後、ご自分の民を心の上において、父なる神のところへ行ってくださったのです。

ピクチャーカード6 メノラー

メノラーとは、7本枝の燭台です。聖書には、メノラーを作るよう命じられており、それは幕屋において、後にはエルサレムの神殿において、重要な聖具であったと書かれています。御言葉では、メノラーの実際の形は指定されていませんが、通常は、真ん中の幹から、左右に3本ずつ、計6本の枝が分かれて出ており、それぞれに油を入れる器が付いています。枝は上に向かってカーブしており、中央の枝は支柱そのものから出ています。神は、ひとつの金の塊からメノラーを作るよう、民に命じました。聖書にはメノラーのサイズは書かれていませんが、タルムードはそれが「手幅8つ分の高さ」だったと教えています。

イスラエルとシリアで行われた多くの発掘作業を通して、紀元前2000年から1500年のメノラーがいくつか出土し、当時どんな形でどんなサイズのメノラーが良いとされていたかがわかりました。発掘されたのは、精巧なオイルランプで、深い油溜めと、火を灯すための7つの穴がついています。想像よりずっと手の込んだものです。しかし、メノラーの中には、陶器、金属、石の上に据えられているものもあり、こちらのほうが幕屋の燭台に近いようです。ローマにあるテトスの門にも、当時の一般的なメノラーが描かれています。門は、第二神殿の時代のものです。エルサレムの街と神殿が破壊されたことを記念して建てられたもので、イスラエルの捕虜が神殿の宝物をローマに運んで行く様子が彫ってあります。描かれているメノラーは、今日のものと同様、7本枝です。

メノラーは、幕屋の至聖所を覆う幕の前に置かれていました。夕暮れに火を灯し、一晩中燃やし続け、朝になると火を消しました。ソロモン神殿の時代まで、その習慣が守られていました。しかし、第二神殿の時代、火のうち3つは、一日中燃やしたままにしておくようになりました。幕屋ではメノラーは1つでしたが、ソロモン神殿の時代には、10のメノラーを置くようになりました。しかし、第二神殿の時代には、1つに戻りました。

古代のコイン、指輪、彫刻、モザイクの床などに、メノラーが彫られています。しかし中世になると、メノラーはひとつのデザインとして、もっと様々なものに描かれるようになりました。7本枝のものと同じくらいよく使われるのは、ハヌカの祝いに用いられる9本枝のメノラー、ハヌキヤです。火を灯すための枝は8本あり、9本目はシャマシュ(しもべ)と呼ばれ、他の枝に点火するために用いられました。今日は一般的に、メノラーにもハヌキヤにもろうそくを灯しますが、もともとはオイルランプとして作られたもので、油を使うのが一番良いと考えられています。

現代になると、メノラーは宗教的なシンボルとして、イスラエルの国家を表す公式のしるしとなりました。また、シナゴーグやシナゴーグの芸術、ステンドグラスの窓、過越の祭りに用いる典礼書やその他の書物に描かれています。テトスの門に描かれたメノラーは、古代のコインにも描かれ、2000年経った今日、ユダの国の復活を示すものとして用いられています。