ステーション5 エルサレム―王たちの町―(前半)

ステーション5 エルサレム―王たちの町―(前半)

歴史的背景

パート1:王たち

モーセの後継者ヨシュアが「約束の地」を占領したのち、士師(さばきつかさ)たちがイスラエルを治めました。士師は、人々を治めるために神に召されたリーダーです。その多くが、イスラエルの苦難の時期に召命を受け、民に解放と平和をもたらしました。この暗黒の時代、イスラエルの民は、異教の神々にいけにえを捧げる過ちを犯しました。偶像崇拝に傾く指導者に惑わされ、道を見失うこともありました。神に対し不誠実に歩んだ結果、異民族に侵略され抑圧される時期も続きました。しかし神は、その中でも選ばれた人々を救われ、愛と力を示されたのです。

最後の士師サムエルが指導者であったとき、イスラエルの民は、他の国民のように王が欲しいと叫び求めました。それを聞いたサムエルは、王を立てる危険性について警告しました。しかし、神は民の要望を敢えて受け入れ、サムエルはイスラエル初の王としてサウルに油を注ぎました。こうしてイスラエルは、サムエルの時代に、士師をリーダーとする政治から王をリーダーとする政治へと移行しました。

サウルの生涯は、旧約聖書の中で最も悲惨な話に数えられます。最初、サウルは多くの戦いに勝利し、良い王であるように見えました。しかし、次第に神の言葉に従わずに行動するようになり、頑なに主に逆らい続け、ついには王位から退けられました。サウルは狂気に陥り、悪霊に苦しみ、油注がれた後継者ダビデの成功におびえ、失敗と不名誉のうちに生涯を終えました。戦いのさなかペリシテ人に討たれ、自ら命を絶ったのです。

次にイスラエルの王となったのは、神の心にかなった人、ダビデでした。彼は羊飼いの少年であったときに、王として油注がれました。その生涯は、輝かしい成功と心痛むような失敗の物語です。サウルの死後、ダビデはイスラエル統一王国を建て、かつてない平和と繁栄の時代をイスラエルにもたらしました。主の御心を行うことを第一にし、主の選びの民のために偉大なわざを成し遂げました。イスラエルの王となったあと、ダビデはエルサレムを攻略し、ダビデの町と名づけて神の都としました。異邦人との戦いにおいては大勝利を収め、ペリシテ人を打ち、エドム、モアブ、アモン、そしてシリヤへと領土を広げました。

しかしながら、ダビデの家庭生活は、王としての生涯と同様には成功しませんでした。彼の家庭はいつも悩みの種でした。たくさんの妻がいたので、その子供たちの間には敵意が渦巻いていました。例えば、姦淫の罪の結果であるバテ・シェバの子の死、アムノンによる異母妹タマルのレイプ、アブシャロムによる兄弟アムノンの殺害などがあります。アブシャロムは、父ダビデに対しても反乱を起こして、エルサレムから追い出し、父の妻を奪い、もう少しで王国を奪うところでした。ダビデは神の御心に沿った人でしたが、神が住まう家庭を作り上げることはできなかったのです。彼は土地も富も手に入れましたが、生ける神の宮を建てるという光栄は、ダビデにではなく、息子のソロモンに与えられました。

聖書では、ソロモンは歴史上最も知恵ある人と言われます。聖書はソロモンの知恵について、「ソロモンがわからなくて、彼女(シェバの女王)に説き明かせなかったことは何一つなかった」と記録しています。また、3千の箴言を語り、千以上の詩歌を作り、聖書の中の3つの書を著したともされます。近隣諸国の王たちが、ソロモンの話を聞くために人を送りました。ソロモンの治世下、イスラエルは黄金期を迎え、平和と繁栄と栄光の時代を経験しました。ソロモンは裁判官としての能力、詩人としての能力、そして、国家を建て上げていく偉大な能力の持ち主でした。イスラエル全土を12の地域に分け、各地に守護を置いて治めさせました。税金や神殿の捧げ物を徴収し、大規模な建設や土木工事を行い、軍事力を増強し、王宮に仕えるたくさんの人々を維持したのです。

中でも、ソロモンの一番の偉業は、神殿建設です。ソロモンの治世4年目に着工し、7年後に完成しました。この神殿は幕屋の2倍の大きさで、縦27m、横55m、高さは15mでした。荘厳で精巧に作られたソロモン神殿は、およそ400年にわたり、ヤハウェ礼拝の中心となりました。

イスラエルの歴史において、ソロモンは最高の賢人であるとされていますが、同時に、最も多くの妻を持った人でもありました。聖書には、700人の妻と300人の側女を持っていたと書かれています。妻たちのほとんどは、外交関係を築くためにめとった外国人でした。残念なことに、この妻たちが異教の神々をイスラエルに持ち込み、ソロモンの唯一神信仰を崩していきました。ソロモンは、妻たちのために異教の宮を作ることさえしたのです。聖書には、「彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つにはなっていなかった」(第一列王記11章4節)と記されています。

ソロモンの死後、イスラエルの国は非常に困難な時代に入りました。ソロモンの息子レハブアムが王となったとき、民は父ソロモンが課した重税と苦役から解放してくれるよう、レハブアムに嘆願しました。しかしレハブアムは、愚かな若者たちの言葉に耳を傾け、民の願いを拒みました。結果的に、国は南のユダ王国と北のイスラエル王国の2つに分かれてしまいました。南王国に属するユダ族とベニヤミン族は、ダビデの家に従いました。一方、エフライム族のヤロブアムが立ち、「ダビデには、われわれへのどんな割り当て地があろう」と残りの部族に呼びかけ、北王国を建てたのです。この分裂王国は、北王国がアッシリヤによって滅ぼされる紀元前722年まで続きました。そして、南のユダ王国も、紀元前586年、バビロニアによって滅ぼされ、多くの民がバビロン捕囚となりました。

パート2:エルサレム

黄金の町エルサレムは、この2千年間、世界中のユダヤ人のあこがれでした。町の美しさと不思議さは、作詞家、画家、詩人、哲学者のテーマとなりました。毎年、過越の祭りの終わりに、世界中のユダヤ人たちは「来年またエルサレムで会おう」と言い交わします。エルサレムのために多くの涙と血が流され、エルサレムの平和のために数え切れぬほどの祈りが捧げられてきました。

ユダヤ人とエルサレムの関わりは、4000年の昔にさかのぼります。アブラハムは神の命令に従い、愛する独り子イサクをモリヤの山で、全焼のいけにえとして捧げようとしました。しかし、主の御使いは、アブラハムの全き従順を見て、イサクに手を下す直前に止めます。こうしてアブラハムがイサクを死から取り返したモリヤの山こそが、後にエルサレムと呼ばれるようになった場所です。このできごとの数年後、5ヘクタールくらいのその土地に、エブス人が城塞の町を作りました。町は小さいとはいえ、取り囲む城壁は急峻な谷の上に建っており、水も地下坑からしか手に入らなかったため、難攻不落でした。しかし、紀元前1000年頃、ダビデはこの要害を落とし、ダビデ王国の都としました。

後年、ダビデは、ダビデの町の北にある高台を、エブス人アラウナから買い取りました。アラウナが打ち場として使っていた場所です。ここに、ダビデは主のために祭壇を築きました。その打ち場こそ、アブラハムがイサクをいけにえに捧げようとした場所です。また、考古学的な多くの証拠から、そこにソロモン神殿、第二神殿(ヘロデ神殿)があったことが明らかになっています。ダビデはエルサレムを永遠の神の都とし、契約の箱を置き、ヤハウェ礼拝の中心地としたのです。

教えるための情報

ユダとイスラエルを治めた45人の王や女王の中で、ダビデは最も偉大な王であり、同時に最も愛された王でした。死後3000年経った今も、ユダヤ人たちは、ヘブル語で「イスラエルの王ダビデは生きて栄える」と歌っています。今日に至るまで、エルサレムは、ユダヤ人が世界中から訪れる聖地となっています。

最も大切なことは、ダビデとメシアとのつながりです。第二サムエル記7章4~17節には、神がダビデと結んだ永遠の契約が記されており、神の贖いの計画が明らかにされています。神はダビデに、ダビデの王国と王座とは永遠に堅く立つと保証され、その子孫から王国を継ぐ者メシアが現れると約束されたのです。メシア待望は、数千年にわたりユダヤ教の要となってきました。しかし、メシアとは何かについては、常に意見が分かれています。

メシアが霊的な力を持つ人物であると考えられていた時期もあり、また、ユダヤ人を抑圧から解放する軍事的な指導者で、世界に平和をもたらすと考えられていた時期もありました。今日のユダヤ教でも多様な見解があり、霊的な贖い主が今にも到来すると信じる人から、人間の努力によりメシアの時代が来るのだと信じる人までいます。ユダヤ人は歴史の中で、シモン・バル・コクバやシャブタイ・ツヴィなどの偽メシアを奉じる過ちを犯し、その結果大きな苦しみを味わいました。にもかかわらず、世界中のユダヤ人がメシア到来のために、今も祈っています。神がダビデの子をダビデの王座につけて、柔和と憐れみで民を治める日が来るという、不動の確信を持っているのです。

ソロモンは、ユダヤ人の歴史に多大なる貢献をしたということで、ユダヤ教では敬われている人物です。知恵、正義、そして平和の良き模範を示し、聖書の書を3つ書き、神殿を建てました。外国人の妻が持ち込んだ異教の神々を拝んだため、人生の後半は神の呪いを受けましたが、ユダヤ教では若い時代の知恵に満ちたソロモンに注目するのです。ソロモンはヘブル語でシュロモと呼ばれ、この名前はユダヤ人の男の子によくつけられます。「ソロモンの知恵」を持てるようにという願いからでしょう。

王になって4年後、ソロモンは、父ダビデがエブス人アラウナから買い取った場所で、神殿建設を開始しました。神殿は幕屋よりずっと大きく、華麗で堅固に造られていたものの、幕屋と多くの点で似ていました。

神殿建設は、イスラエル人の礼拝に非常に大きな影響を与えました。王制以前は、人々は様々な場所で主を礼拝していました。また、その場その場で祭壇を作り、適当に家畜などをいけにえとして捧げていました。しかし、モーセの律法に書かれた方法でいけにえを捧げることにより、神礼拝と神への奉仕が盛んになっていったのです。

この時代、人々は祭りを祝うため、年に3回エルサレムに上ることになっていました。五旬節(ペンテコステ)、種なしパンの祭り(過越祭)、そして仮庵祭です。礼拝では、祈り、寝ずの番、聖なる食事、きよめの儀式がなされましたが、それらは大いなる喜びをもって行われました。音楽、歌、そして踊りを通して、彼らは真の神との関係を祝ったのです。