No.057 アブラハム契約⑤ エジプトで祝福される

No.057 アブラハム契約⑤ エジプトで祝福される

創世記12章10—20節
パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。(20)

アブラムはその地に起こった激しい飢饉を逃れるため、エジプトに移住します。本当は、主が与えると約束された土地にとどまるべきでした。それみたことか、エジプトが近付くと、アブラムは恐れに捕らわれ、自分の命を守るためサライに苦しいウソをつかせます。「私の妹だと言ってくれ」。そうして、妻がパロ(ファラオ)の宮廷に入るのを容認してしまいます。その見返りとして、アブラムは多くの家畜と奴隷を得ました。それは、妻をパロに売ったのも同然の所業でした。

アブラムは主と祝福の契約を結んだのです。祭壇を築いて、主の御名によって祈ってもいます。ですが、アブラムはまだ、主に信頼し、忠実に歩むことを知りませんでした。

それでも、主のほうはアブラムとの契約に忠実でした。パロの家を災害で痛めつけ、サライをすぐに取り戻してくださいました。アブラムが主に信頼せず、妻に不真実であったにもかかわらず、主はアブラムとサライを守られたのです。しかも主は、アブラムが見捨てたサライによって、アブラムを富ませてくださいました。こうして、アブラムは、妻と多くの所有物とともにエジプトを出、飢饉を乗り越えたのです。ひどい話ですが、不条理というべき恵みです。

しかし、アブラムはこの体験で、主と結んだ祝福の契約が本当に無条件であることを知りました。主が、この契約のすごさをアブラムに思い知らせてくださったのです。不忠実、不真実で、恥ずべきことをして、なお夫婦一族みな無事であるばかりか、多くの財産が転がり込んでくるとは、「不条理な祝福」です。「私は不真実でも、不可抗力的に恵みを受ける」。そんな確信が芽生えたことでしょう。以後、アブラムは主を信じ、弱さや戸惑いを抱えながらも忠実に歩もうとします。祝福の主が共におられるという平安が、アブラムの度量を大きくしたことでしょう。

ところで、こんな祝福の契約が私たちと何の関係があるのでしょうか。あります。私たちも信仰によるアブラハムの子孫だからです。日本に生まれて、偶像礼拝に馴染んできました。十戒に悖(もと)る行為を重ねてきました。隠れた恥ずべき行為もあります。にもかかわらず、キリストを知る機会が一方的に与えられ、不可抗力の恵みで永遠のいのちを保証され、「新しい契約」の中で暮らしています。今も、弱さや恥を露呈することはありますが、主に見捨てられることはありません。否応なく悔い改めに導かれ、祝福が回復されることも、契約の中に含まれています。

私は、正確に言うと、「主に忠実に行動すれば、主は必ず祝福してくださる」という信仰では歩んでいません。むしろ、「主は約束通り祝福してくださるから、主に忠実に、感謝と喜びで、仕えていこう」という信仰です。場合によっては、前者の表現をすることもあるでしょうが、厳密には後者の信仰です。それが契約信仰です。