No.061 アブラムの崇高な態度
- 2020.05.22
- 三つのテーマで読む創世記(下)
創世記14章22、23節
しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。」
さて、凱旋したアブラムをふたりの人が出迎えました。シャレムの王メルキゼデクとソドムの王です。アブラムは彼らの「人となり」(本性)を洞察して対処します。
まず、メルキゼデクには、「いと高き神の祭司」として対しました。アブラムは彼からパンとぶどう酒で迎えられ、「いと高き神」の名によって祝福を受けました。アブラムは神が勝利を与えて下さったことを感謝し、最良の戦利品の1/10をメルキゼデクに捧げました。1/10は神のものであるとしたのです。主に祝福され、1/10を捧げることで「祝福の源」である務めを果たしました。アブラムは、主と結んだ契約に立っていることがわかります。
一方、ソドムの王については、その本性を見抜き、関係を結びませんでした。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください」というソドムの王の申し出を断ります。勝利者アブラムが財産を受け取ることは当然の権利ですが、それを放棄しました。ソドムの王の申し出は、「世の惑わし」です。ソドムの王から糸一本、靴のひも一本でも受け取ったなら、つながりができてしまいます。アブラムは、ソドムの王が「アブラムを富ませたのは私だ」ということを懸念します。あるいは、ソドムの財産には偶像にまつわる物が含まれているかもしれません。この世の権力や名誉に誘われるきっかけにもなります。
アブラムは、「私は神によってのみ富むのだ。神のみが豊かさの源である」と信じています。神と祝福の契約を結んだ者の余裕です。この信仰と余裕が、世の欲に引きずられ、争いに巻き込まれることから守っています。ただし、加勢してくれたアネルとエシュコルには戦利品を分けました。そういう約束だったのでしょう。それが世との付き合い方です。
こうしてアブラムはメルキゼデクには敬意をもって仕える姿勢を示し、ソドムの王との関係は拒絶しました。主に仕え、世には仕えない、つながりもしないという態度を明確にしたのです。これが神の国に生きる者の姿です。主とともに歩む者には、それが主からのものか、世からのものかを見分ける霊的判断力が与えられています。重要なことは、世からのものには反射的に否を突き付け、主からのものは損得を勘定せず無条件で受け入れることです。
ところで、サレムの王メルキゼデクは「平和の王」「義の王」「神の祭司」です。王は、神の代行者として神の権威を行使し、国の代表として神に対し責任を持ちます。祭司は、神と人との間に立ち、神の基準で人を裁き、人のために神にとりなすことで、神と人との関係を正しく保ちます。メルキゼデクは「平和の君」なるキリストを指し示す型であり、キリストはメルキゼデクに等しい大祭司なのです(へブル6:20詩110:4)。
また、メルキゼデクが持って来たぶどう酒とパンは、キリストによる聖餐式の型です。アブラムはメルキゼデクに仕えることで、先取りしてキリストに仕えたのです。
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