No.062 アブラムの信仰が義と認められた
- 2020.05.25
- 三つのテーマで読む創世記(下)
創世記15章1—6節
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
……そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。それが彼の義と認められた。(1、5、6)
アブラムには恐れがありました。主は約束どおり財産については祝福してくださいましたが、夫婦には依然嫡子がありません。このままでは財産はすべて他人の手に渡ってしまいます。主はそれを見越したかのように、「恐れるな」と語りかけてくださいました。アブラム自身から生まれ出てくる者が、アブラムの跡を継ぎ、子孫は星の数のようになるのだからと。アブラムは信じました。それが彼の義と認められました。
とはいえ、老いた夫婦には子をもうけることは不可能です。夫婦のことは夫婦がよくわかっています。何の兆候もないまま時は過ぎてきたし、これからもそうでしょう。空の星を見せられても、すんなり信じられることではありません。それでも、アブラムは信じたのです。何を信じたのか。主を信じました。主の約束の言葉を信じました。自分から子が生まれることを信じました。嫡子を持つこと、それがアブラムの切なる願いです。契約を継承する子がなければ、自分が世に存在した意味が失われます。主を信じることがアブラムのすべてでした。
また、主にとってもアブラムの信仰は不可欠でした。アブラムの信仰なしには、「アブラハムとの契約」は反古になるからです。主は彼の信仰を用いて、祝福の源となる民族を立ち上げられます。アブラムの信仰から神の民イスラエルが創られ、神のことば(聖書)が記録され、救い主が登場されます。アブラムの信仰によって聖霊が降られ、教会が建てられます。すべてアブラムの信仰から始まりました。主がアブラムの信仰を義とされた理由がここにあります。
このように「信仰による義」とは、個人の救いだけを指すのではありません。神の計画を促進し、神の国を回復するという歴史的・宇宙規模の救いを意味するのです。信仰によるアブラハムの子孫である私たちも、そのような「信仰による義」を受け継いでいます。西欧のキリスト教は個人主義的傾向を強めてしまいましたが、聖書本来の「神の国」の共同体に立ち返るべきです。実存主義的信仰の単独者にとどまるのではなく、互いに愛し合う「神の家族」になるのです。自己実現ではなく、キリストの体の実現です。
ところで、パウロがこの箇所から信仰義認を説いた(ロマ3:24、4:5)ように、旧約聖書は「行いによる救い」、新約聖書は「信仰による救い」を教えているという考え方は正しくありません。人は、エデンの園から追放された後は、恵みと信仰で神の義をいただくほかない者になりました。行いでは誰一人救われません。アブラムもモーセもダビデも、信仰で義とされました。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」。それはキリスト以前も以降も同じです。
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