ステーション8 ハッピー・ハヌカ!(前半)
- 2020.05.27
- アブラハムの子供たち
歴史的背景
このステーションの「歴史的背景」は、ステーション7「ハスモン家(マカベア家)のエルサレム」の「歴史的背景」と同内容になります。
イスラエル人は歴史の中で、父祖アブラハムの遊牧生活から始まり、モーセに導かれて荒野を放浪し、ヨシュアに率いられて「約束の地」を獲得して定住し、士師の時代を経て、ついに王を持つようになりました。
このおよそ千年の間に、神の民イスラエルは大きな変化を経験しました。家畜の群れを飼う遊牧生活の時代は、移動する先々で天幕を張って礼拝を捧げていましたが、やがて約束の地で農民、職人、商人となり、神の都エルサレムに神殿を建設し、そこを礼拝の中心地としていったのです。イスラエルの民は、他民族との土地の境界と、部族ごとの割り当て地を、神から明確に示されました。
イスラエルは、士師(さばきつかさ)主導の政治から王権政治に移行しました。抑圧と欠乏の時代を通り、自由と繁栄の時代も経験しました。国民が誠実に神に仕え、異教の民の手から救われ、唯一神信仰の民族として統一を保った時代もありました。また、唯一神を礼拝する独特な儀式や習慣のゆえに、周囲の偶像礼拝の民に嫌われ、虐げられることもありました。さらに、自らも自分の神に不忠実であったために、厳しい懲らしめを受けることもありました。そして遂には、約束の地から離散することになってしまったのです。
他の民族に同化して唯一神信仰を捨てたらどんなに楽だろうか、という誘惑はいつもありました。しかし、イスラエルの民は2000年にもわたり、神は唯一であるというメッセージを失うことなく、伝え続けます。
イスラエル統一王国はソロモンの死後、紀元前931年に分裂し、衰亡への道を辿(たど)ります。そして、アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシア、ローマという大帝国に支配されました。
まず紀元前722年、北王国がアッシリアに侵略され、何千というイスラエル人が虐殺されました。生き残った人々も他地域に移住させられたり、南王国へ逃げたりし、その地に残されたのは最も貧しい人々だけでした。また、アッシリアの王サルゴンは、多くのイスラエル人をアッシリア帝国拡張の最前線へ送り出しました。
次に、紀元前586年、バビロニアの王ネブカデネザルがエルサレムを陥落させ、南王国の人々をバビロンに連行しました(バビロン捕囚)。彼らは祖国から引き離され、突然、強制的に異国の地に移住させられたのです。詩篇137篇が、捕囚の民の苦しみを記録しています。「バビロンの川のほとり そこに私たちは座り シオンを思い出して泣いた。街中の柳の木々に 私たちは竪琴を掛けた。それは 私たちを捕らえて来た者たちが そこで私たちに歌を求め 私たちを苦しめる者たちが 余興に『シオンの歌を一つ歌え』と言ったからだ。どうして私たちが異国の地で 主の歌を歌えるだろうか」(詩篇137篇1~4節)。
しかしながら、多くのユダヤ人はエレミヤの助言に従い、新しい土地に根を下ろしました。自分たちの敗北は神の御心であり、ネブカデネザルや異教の神々が強いからではないと信じていたので、ユダヤ人たちはバビロンの神々に心惹かれることはありませんでした。彼らは家と土地を買い、果樹を植え、捕囚の身でも事業を立ち上げました。当時商売に用いられた石板を考古学者が解読したところ、ユダヤ人の立場が改善されていったことがわかりました。バビロニアはユダヤ人に社会的自由だけでなく、自分たちの宗教活動を管理する権限も与えていたようです。
紀元前539年、ペルシャのキュロス2世(聖書ではクロス王)がバビロンを陥落させ、現在のイランからトルコ、エジプトまでの地域を領有する大帝国を築きます。キュロスは被征服民族を寛大に扱い、寛容な宗教政策をとりました。紀元前538年、ユダヤ人に祖国帰還命令が出され、神殿の再建や礼拝の再開が許可されました。しかし、長年バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民にとって、ユダヤに戻るという決断は、簡単ではありませんでした。捕囚中に築き上げたすべてを捨て、貧しい祖国に戻り、不確実な未来に向かい合わなければなりません。しかもそれは、長く危険な旅となります。それでも、非常に多くのユダヤ人が熱い思いで立ち上がりました。彼らはエルサレムに帰還し、神殿の再建に乗り出しました。いわば古代のシオニストです。捕囚の地に残った人々も、喜んで彼らの再建計画を支援しました。
帰還したユダヤ人は、神殿の基を据えました。感謝にあふれ、モーセの律法に喜んで従おうとしました。再び礼拝といけにえを捧げるようになり、聖書に定められた祭りを祝いました。しかし、神殿が完成したのはそれから15~20年後でした。
紀元前459年、アルタクセルクセス王が、新たにエズラにユダヤ人の祖国帰還を保証します。
そのころ、バビロンは、ユダヤ教の一大中心地となっていきました。学者エズラは、バビロンにいる間、トーラー(律法)を研究しました。王はエズラに、ユダヤ教とエルサレムでの宗教生活をトーラーによって整えるよう、命じていたのです。ユダヤの伝統では、ユダヤ人を絶滅から救ったのはエズラだとされています。タルムードには、もしモーセが最初に登場していなかったら、エズラこそが神から律法を受け取るのにふさわしい人物だとさえ、書かれています。ユダヤ人が異教の民族に完全に同化してしまわずに済んだのは、エズラが異教の女性と結婚していた人々に対し、結婚の解消という厳しい対処をしたおかげです。そして律法が祭司階級だけでなく一般庶民のものとなったのは、エズラが公で律法を読み聞かせたからです。ユダヤ教徒の間では、エズラは神の律法を心から愛した人として敬愛されており、エズラが詩篇119篇を書いたと考える学者もいます。
この時までに、約5万の捕囚の民がユダヤに帰還しました。しかし、西アジア(中東)やエジプトに残ったユダヤ人共同体も多くありました。故郷に戻ったユダヤ人の熱心な働きと情熱にもかかわらず、民族の将来は明るくはありませんでした。ユダヤ人たちはその後何世代にもわたって、異邦人に支配され抑圧され続けたのです。
教えるための情報
マカベア戦争で起きた奇跡を記念して、ハヌカと呼ばれる8日間の祭りが始まりました。今でも毎年、世界中のユダヤ人がお祝いをします。子供たちが大好きな祭りで、ごちそうを食べ、プレゼントを贈り合います。過越祭に次ぐ大きな祭りで、実にユダヤ人の7、8割が祝います。
ハヌカで行われる唯一の儀式は、ハヌキヤという8枝の燭台に、火を灯すことです。ユダ・マカバイに率いられたユダヤ人兵士たちが神殿に入ったとき、ハヌキヤは異教の神々の儀式に使われていました。憤慨した彼らは、ただちにそれを取り戻し、神聖な儀式に使えるようにきよめました。しかし、灯火用の聖なるオリーブ油は、たった1日分しかありませんでした。ここで、奇跡が起きます。小さな瓶1本分の油が、8日間も燃え続けたのです。この奇跡を人々に伝えるため、ハヌカは8日間祝われ、ハヌキヤは毎晩灯されます。街路の人々が光を見られるように、ハヌキヤは窓のところに置かれます。
ハヌカでは他に、ラトケスと呼ばれ油で揚げたジャガイモのパンケーキ、ドーナツ、果物のフリッターなど、油で調理されたものを食べる習慣があります。また、ハヌキヤが燃えているときに、女性は働いてはならないという伝統があります。贈り物をすることも、お祝いには重要です。聖歌、祈り、祝福そして賛美に加え、みながゲームに興じ、子供たちの歌が祭りを満たします。
しかしながら、喜びのただ中にあってもユダヤ人の家族は、ハヌカのメッセージを静かに思いめぐらします。アンティオコス・エピファネスによるユダヤ教根絶計画とヘレニズム化政策を阻止するために、何千ものユダヤ人が命を捧げました。しかし、今日私たちも、マカベア家の時代と本質的には同じ戦いを戦っています。すなわち、神に従うか、世に従うかという戦いです。
ユダヤ教は生き残り、現代も生き続けています。なぜなら、神の聖なる命令に従い続けたからです。すなわち、「シェマ イスラエル、アドナイ エロヘイヌ、アドナイ エハド」、「聞きなさい、イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである」という命令です。
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