祝福の源としての役割

祝福の源としての役割

創世記18章17-22節
「アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」(18-19)

主がアブラハムを「強く大いなる国民」とされるのは、すべての民族の祝福(救い)の源となるためです。それが契約の内容でした。そのためには、主の道に歩み、正義と公正を行う民にならなければなりません。モーセの時代に、「主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」(レビ19:2)と命じられたのと同じです。

さて主は、「ソドムとゴモラの……罪はきわめて重い」とし、滅ぼすことをアブラハムに告げられました。アブラハムに、主と祝福の契約を結んだ者として行動することを期待しておられたようです。それは、アブラハムが主と同じ義と愛の心をもって、主とソドムの間に立ち、ソドムのためにとりなすことです。

ソドムの王と住民は、以前、ケドルラオメルと利権をめぐって戦い、人や財産を奪われるという苦い経験をしました。ソドムの住民となっていたロト一家も戦いに巻き込まれ、痛い目に遭いました。その窮地を救ったのがアブラハムでした(14章)。しかしソドムの住民は、悔い改めることなく、さらにひどい罪の生活にはまりました。そうして、神の怒りを積み上げていったのです。ロトもそんなソドムの町から離れようとはしませんでした。町の住民と縁戚関係を結び、町に溶け込んでいました。悲惨な体験から何も学ばない人たちです。直前まで滅びが襲うことがわからなかったノアの時代と同じです。

今度こそ自業自得です。もうつける薬はありません。放っておけばいいのです。しかし、それでもアブラハムはロト一家とソドムの町を見放さず、彼らの救いのために主にとりなします。それが、主と祝福の契約を結んだ者の務めなのです

アブラハムは、正しい者が悪い者と一緒に滅ぶことを望みませんでした。いや、正しい者のゆえに、悪い者の滅びが猶予されることを願いました。主の義が現わされるのを阻止するつもりはありません。ただ、愛と憐れみを求めたのです。

アブラハムの願いは、主の御心にかないました。主はもともと「わたしは決して悪者の死を喜ばない」(エゼ33:11)という方だからです。その主の心を、アブラハムはともにしたのです。

新しい契約の恵みを受けた者の務めは、アブラハムの務めと同じです。滅ぼされて当然の人々のためにとりなし祈ることです。「悪者の死を喜ばない」主の心を、自分の心とすることです。その心があることが、神の国に生きていることの証しです。