祝福の源として、ソドムをとりなす

祝福の源として、ソドムをとりなす

創世記18章16-33節
「その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。」(24—25a)

アブラハムは「祝福の源」として、主の期待通り、ソドムのためにとりなしをします。

まず、主を畏れつつ、大胆に嘆願します。「あえて主に申し上げるのをお許しください」「私はちりや灰にすぎません」「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください」とひれ伏しながら、「あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか」「全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか」。つまり、主に物申す資格のないことを認め、へりくだりつつ、主の公義と公正を根拠にして、訴えるのです。アブラハムの必死さが伝わってきます。

まず「五十人の正しい者がいれば」という条件から始め、順に六度も人数を減らし、ついに「滅ぼしはしない。その十人のゆえに」という主の約束を勝ち取りました。主はわずかな正しい者が生き残るより、何千という悪い者が救われることを喜ばれます。アブラハムは神の慈愛を知っていて、粘り強く訴えました。主はアブラハムの必死さに、ご自身の愛を見られました

この章で見るアブラハムの偉大さとは何か。一つは、自分の子孫、そして信仰による「アブラハムの子孫」に、「祝福の源」の務めとはいかなるものかを実践して見せたことです。もう一つは、「正しい者が十人いれば町全体が救われる」という主の約束を残したことです。

「正しい者」とは、神の義を求める者、悔い改めた者、「悪い者」とは不正、汚れに心が染まっても何も感じなくなった者のことです。悪い者が何千人いても、神の前に正しいと認められた者が「十人」いれば、町全体を堕落や滅びから救えます。「十人」にはそんな力があるのです。しかし、ソドムにはその「十人」がいませんでした。

神の国に生きる者は、世俗文化の退廃ぶりを見て、このままでは主の裁きが下ってもおかしくないと感じているはずです。なのに、滅びの日はまだだろうと、「アブラハム」になることを先延ばしにしています。この世の安楽な平和に飼い慣らされて、腰を上げるのが億劫です。「ソドムの日」はそうして来るのです。

自分の信じていることに確信のない者が、人を感化することはできません。生温い信仰者は、人に影響力を発揮できません。心に疚しさのある者は、人の行いを正せません。祈らない人が、人を悔い改めに導くことは期待できません。しかし、信仰によってアブラハムの子孫になったという確信があるなら、この「十人」のひとりなって、社会に対して影響力を持つことができます。

私たちは「アブラハム」を継ぐこと、あるいはあの「十人」の一人になることが求められています。「十人」いれば現代の「ソドム」が救えます。