主の選びとロトの選んだ道

主の選びとロトの選んだ道

創世記19章30-38節
こうして、ロトのふたりの娘は父によってみごもった。姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。(36-38)

アブラハムとロトの土地の選び方が、それぞれの子孫の運命を決定しました。

ヨルダンの低地を選んだロトはソドムに引き込まれ、その町の人々と縁を結びます。そしてソドムが主の裁きを受けたとき、その滅びに巻き込まれて、妻と財産のすべてを失ってしまいました。残ったのは二人の娘だけでした。その娘たちからアンモン、モアブの二つの民族が出ますが、主の祝福からは外れ、やがて歴史の流れに埋没していきました。

一方、アブラハムはロトと別れた後、更なる主の約束を受けます。「カナンの地を永久に子孫に与える」「子孫を地のちりの数ほどに増やす」と。そのとおり、子孫はイスラエルという民族に成長し、カナンの地を獲得して王国を建てました。主に不従順な時代もありましたが、「契約の民」として祝福と苦難の歴史を生き抜き、世界に「聖書」「救い主」「教会」を送り出しました。諸国民の祝福の源となる役割を果たしたのです。

アブラハムは祝福の道を選び、ロトは衰亡の道を選びました。それは、主がそのように定めておられたからです。

神の世界にあっては、神が定められたことを人間が選び、人間が選ぶことを神が定めておられたのです。神の定めと人間の自由意志による選択は一つです。人間の側の理屈で考えるなら、矛盾しています。しかし、神の論理においては、それが真理なのです。

神の論理は、人間の理屈で理解できることではないので、そのまま受け入れるほかありません。それが信仰です。神の論理で読めば、聖書の矛盾は解消します。しかし、人間の理屈を押し通すなら、いつまでたっても聖書の世界は理解できません。

アダムの反逆からユダの裏切りまで、すべて主の定められた計画の中にあります。しかし、彼らが自分の意志でその道を選んだので、責任は彼らにあります。一方、信仰の決断と恵みも、神の計画の中にあります。たとえば、私たちはたましいの遍歴の末、自分の意志でキリストを選び、信じる決心をしました。しかし、信じてみれば、キリストは「あなたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたを選んだ」と言われます(ヨハ15:16)。実に、天地創造の前からキリストにあって選ばれていたのです(エペ1:4)。これが神の側から見た現実です。

さて、主はロトを愛されていました。主はロトをソドムの滅びから「憐れみ」(16)によって救い出されました。ロトはその愛に応答して、アブラハムのもとに帰ればよかったのです。いや、それまでもアブラハムの道に戻ることを選ぶ機会は何度もありました。しかし、選びませんでした。それはロトの責任です。そして、それが神の定めなのです。

ロトと二人の娘との近親相姦で、ロトにとって子であり孫である二人の男子ベン・アミとモアブをもうけます。ロトへの主の慈しみはなお変わらず、モアブの子孫からダビデの曾祖母となるルツが出て、キリストの系図に名を残すことになります。主は、ルツでロトの不名誉を覆われるのです。