愛する独り子イサクを捧げなさい

愛する独り子イサクを捧げなさい

創世記22章1、2節
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(2)

アブラハムはこの命令に従い、独り子イサクを捧げ、神への絶対的な信頼を表します。と同時に神は、創世記3章15節の「女の子孫キリストが蛇(サタン)の頭を打ち砕く」という神の勝利宣言をどのように成就するか、その型を示されす。

ここで神がアブラハムに命じられたことは、倫理に反しています。我が子をいけにえに捧げる(殺す)ことを命じられる神は、とても愛なる神とは思えません。しかし、アブラハムは神の命令に従うのです。そんなアブラハムの決意も信じがたいものです。

まず、アブラハムとサラにとってイサクとは何かを見ておきましょう。

イサクは、神によって奇跡的に与えられた「約束の子」です。祝福の契約と財産を受け継ぐ「跡取りの子」です。神ご自身がいわれる通り「愛する独り子」です。アブラハムとサラのすべてです。イサクが死んだら、老夫婦には何も残りません。契約を結んで以来、曲がりなりにも神に従い、百歳と90歳でやっと子が与えられ、その子が成長した矢先のことです。あまりも理不尽な命令です。

では、アブラハムにとって神とは何なのか。自分を選び、偶像礼拝の地ウルから引き出した「唯一なる神」「全能の神」です。祝福の契約を結んだ「愛なる神」です。生涯、従い通さなければならない「絶対者」です。

そして、アブラハムは神の命令に無条件に従ったのです。「我が子を殺せと言われるのですか」と哀願もせず、「子孫は星の数のようになるという契約どうなるのですか」と反論もせずに従いました。滅ぼされる罪の町ソドムのためにとりなした時のように、食い下がることもありませんでした。いのちの主、全能者、絶対者であるがゆえに、従ったのです。

アブラハムは、二千年後、神が、「愛するひとり子」イエス・キリストをエルサレム(モリヤの山)で十字架に付け、全人類のいけにえにされるのを知っているかのように、まるで神の痛みを共に味わうかのように、黙々とモリヤの山に向かうのです。それゆえ、2節の神のことばはこう言い直すことができます。「わたしは、わたしの愛する独り子イエスを、エルサレム(モリヤ)の地で、贖いのささげ物として十字架に献げる」。

神は、唯一絶対なる方です。何にも縛られません。しかし、アブラハムとの契約にはご自分を縛られるのです。その方にアブラハムは全面的に信頼し、自分の思いを放棄して従いました。アブラハムは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:5)の極限を表したのです。二千年後の神の痛みを共にしたアブラハムは、神にとっていとおしい存在だったことでしょう。「神の友」(ヤコブ2:23)と呼ばれる所以でもあります。