父なる神とキリスト、アブラハムとイサク
- 2020.07.20
- 三つのテーマで読む創世記(下)
創世記22章3-18節
アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。(8)
22章は、神とアブラハム、そしてイサクとの間だけに起こったプライベートな事件のようですが、実は、神が創られる歴史において全人類に関係する大事件です。
神に、「独り子を献げなさい」と命じられたアブラハムは、「翌朝早く」イサクを連れて出かけます。「陽が昇って」からではないのです。この「献げなさい」「翌朝早く」の間に、心の葛藤は見えません。アブラハムの心の内を心理学的に説明したりすると、真実を誤ります。彼は神のことばは神のことばとして受け入れ、即行動したのです。
三日目に、息子が「ささげ物にする羊」について父に問います。父は「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださる」(8)と答えます。アブラハムは知らずして、神が独り子イエスを「いけにえの羊」として、十字架で屠られることを予告したことになります。
6節の「アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った」は、十字架を背負いゴルゴダに向かわれるイエスの姿を思い浮かばせます。「そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた」(9)。こうして抵抗せず、父のなすがままになるイサクは、父なる神に、「どうぞ御心のとおりをなさってください」(マタ26:42)と祈られた、ゲッセマネのイエスを彷彿とさせます。
神は、アブラハムのこの全き従順を認められました。「あなたは、自分の子、自分のひと
り子(イサク)さえ惜しまないでわたしにささげた」(12、16)。二度繰り返されたことのことばに、神の喜びがあふれています。アブラハムとイサク親子は二人して、父なる神と子なる神が二千年後になさろうとしておられることを、そのままやって見せたのです。彼らは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。……」(ヨハ3:16)という福音の型になりました。知らずにしたことですが、神は知っておられます。「今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」(ヨハ13:7)の一つです。
この事件は、キリストの十字架だけでなく復活も示しています。へブル書はこう語ります。「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です」(11:19)。モリヤの山までの三日間、アブラハムにとってイサクは死んでいたのも同然でした。しかし、全能の神に信頼し従ったがゆえに、イサクを取り戻しました。イサクに「神ご自身が羊を備えてくださる」と予告していた通り、神がイサクに代わる「一頭の雄羊」を用意されていたのです。これは、神が独り子を十字架に付け、三日目によみがえらせる「型です」。アドナイ・イルエの「備え」とは「罪のためのいけにえ」の雄羊、つまりキリストのことです。
信頼するなら、即行動し、黙々坦々と最後まで信頼しとおすことです。それが最も神を喜ばせ、知らずして神の国の計画を推し進めることになります。
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