祝福の継承者は、主との出会いを繰り返す
- 2020.08.21
- 三つのテーマで読む創世記(下)
創世記27章1-28章9節
「全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを与え、おまえをふえさせてくださるように。そして、おまえが多くの民のつどいとなるように。神はアブラハムの祝福を、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫とに授け、神がアブラハムに下さった地、おまえがいま寄留しているこの地を継がせてくださるように。」(28:3-4)
アブラハムは主に選ばれて祝福の契約を結び、絶対服従の生涯を送りました。百歳にして息子が与えられるという奇跡的な出来事を体験しましたが、奇跡の連続だったわけではありません。ただ主との出会いを反復していく人生でした。息子イサクは、父の偉大な信仰を目撃し、祝福の契約を受け継ぎました。父ほどに主との個人的な出会いは体験していませんが、「主がともにおられる」人生を忠実に歩みました(26:28)。
しかし孫の代になると、主との出会いは希薄になり、祝福の継承は本来の目的からずれていきました。弟ヤコブは策略で兄から継承権を奪い、兄エサウは食い物のために継承権を手放し、そこに両親の偏愛が加わって骨肉の争いを引き起こすことになります。
ヤコブは初めのころは、主の存在にすら気づいてはいません(28:16)。自己中心的に生き続けます。主と出会いの重要性や、祝福の契約を受け継いだ意味を自覚するのは、後年のことです。
エサウになると、もはや主との出会いの体験はありません。祝福の継承にはまるで無頓着で、父イサクがリベカと結婚した経緯や意図を知らず、カナンの異教の娘と結婚しました。エサウの子孫は主の民から外されていきます。
さて、祝福の継承者に選ばれたヤコブは、どうやって継承者にふさわしくなっていくのか。それは、主との出会いを繰り返すことによってです。イサクから祝福の言葉を受けて、祝福を継承できても、主がともにおられることは、自分で体験しなければなりません。主との個人的な出会いは不可欠です。そして出会いは何度も繰り返す必要があります。モーセ、サムエルからペテロ、パウロにいたるまで、主の器はみな、主との決定的な出会いをし、それを繰り返しています。出会いの反復がなければ、祝福は単なる偶像になってしまうのです。
ヤコブはまだ、祝福の契約の本来の意味と目的を知りません。祝福は「諸民族の祝福の源」となるためのものです。祝福の契約の継承は、その務めと切り離せません。その自覚がなければ、祝福自体が目的となってしまいます。それが偶像化です。
エサウとヤコブから学ぶべきは、①何が最も大切であるかを見抜く、②最も大切なものは、不正な方法を用いず、信仰によって受け取る、③何が目的なのかを忘れない、④以上のために、主との出会いを繰り返す、ことです。
礼拝、聖書の学び、祈りを怠れば、主との出会いが希薄になります。出会いが希薄になれば、何が最も大切であるかを見抜く霊的洞察力が鈍ってきます。クリスチャン人生とは、主との出会いの反復であることを忘れてはなりません。
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