アブラハムの神、イサクの神との出会いが始まる
- 2020.08.24
- 三つのテーマで読む創世記(下)
創世記28章10-22節
「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。……地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。……わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(28:13-15)
ヤコブはエサウに命を狙われ、父の家を出て、母の故郷ラバンの家に向かいます。彼を守るものは何もない危険な旅でした。古いつながりから新しいつながりへと移っていく過渡期です。新約聖書でいえば、「古い人」の死と、「新しい人」の誕生への第一歩です。
日が沈み、石を枕に横たわった場所は、ヤコブが最初に主と出会った記念すべき所となりました。ヤコブは夢で、「天に届く梯子」を見ます。それは、天と地がつながり、主の恵みが上からヤコブに注がれ、「上り下りする天の使い」によって養われることを意味するものでした。
さらにヤコブは、主から直接、アブラハム契約の継承者として認定されました。つまり、土地の約束、子孫を増やす約束、そして諸民族の祝福の源となるという約束を受け継いだのです。また、主がヤコブと共にいて守り、どこに行っても見捨てず、父祖の地に連れ戻す、という保証も受けました。
眠りから覚めたヤコブは、神が自分の側におられることに気づきます。「主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」。主との最初の出会いです。ヤコブは枕にした石を柱として立て、その地をべテル(神の家)と名付けました。
主はずっとヤコブとともにおられたのに、ヤコブはそれに気づかないできました。自己中心、我の強さ、自分の知恵により頼む傲慢さのゆえに、目が閉ざされていたのです。しかし、父母のもとを離れ、子としての地位と安全な日常生活を失い、夜の荒野に横たわったとき、孤独の中で、初めて「ともにおられる主」と出会いました。命を狙われ、守りを失った恐れの中で、神とのつながりの第一歩を築きました。
「枕にした石を柱として立てて油を注いだ」ことは、その記念です。「枕にした石」は、ヤコブの我の強さや、臆病や孤独を表わすと同時に、神の臨在と祝福の約束を意味しています。ヤコブは今や、父イサクの信仰から自立し、独りで神の前に立ったのです。
ところで、主は祝福を約束されただけで、ヤコブに何も命じてはおられず、また何の条件も出してはおられません。選ばれた者は、ひたすら主の恵みによって、選ばれた者にふさわしく成長していくのです。ただ、ヤコブは自ら「主から賜わる物の十分の一を捧げる」ことを約束します。以降、我の強さを抱えながらも、主との出会いを繰り返して、祝福の継承者の務めを果たすことになります。
我欲で目が閉ざされていても、主に選ばれた者は「この所におられる神」に気づく日がきます。逆に言えば、共におられる神に気づいた者が神に選ばれた者です。この循環こそが、聖書の語る真理です。そして、「私の神となってくださる」(21)主との出会いの日々が始まります。この繰り返しこそが、神の国の暮らしです。
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