ユダの自己犠牲的姿勢が和解を導く
- 2020.10.12
- 三つのテーマで読む創世記(下)
創世記43、44章をお読みください。
「私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。」(43:9)
「私も失うときには、失うのだ」。ヤコブが家族全体を救うためにベニヤミンを失う覚悟をしたことで、ヤコブはすべてを取り戻すことになります。そのように父を説得したのは四男ユダでした。
ユダは父ヤコブに対しては、自分がベニヤミンの保証人となって必ず連れ戻すと約束し、一方、ヨセフに対しては、弁解せずに父との約束に真実を尽くそうとしました(44:30、31)。
「このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。あの子が私といっしょでなくて、どうして私は父のところへ帰れましょう」(44:33、34)と切々と訴え、自分がベニヤミンの身代わりとして奴隷になることを願い出たのです。
このユダのことばは、自分のいのちを投げ出されたキリストに通じます。この真摯な態度、父ヤコブを思う心、身を挺した姿勢が、ヨセフを感動させました。見事にヨセフのテストに合格したのです。
それに呼応して、ヨセフは「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです」(45:5)と、神の計画を明らかにし、兄たちへの赦しを宣告しました。こうして四人の母親から生まれた十二人の息子たちは和解し、アブラハムの祝福がヤコブの家に成就していくことになるのです。
ところで、エジプトの宰相となって一族を救ったヨセフからは、イスラエル十二部族中、エフライム族とマナセ族の二部族が出ましたが、その部族出身者の名は新約聖書には登場しません。民族名として名をとどめたのはユダです。マタイ1章のアブラハム、ダビデ、イエス・キリストの系図はユダ族の系図です。ユダ族を栄えあるものにしたのは、族長ユダの悔い改めと、キリストにも似た自己犠牲的な言動だと思います。
ユダの語った言葉を並べてみましょう。「私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください」。「このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください」。「あの子を保証しているのです。……あの子が私と一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れましょう」。「このしもべ」「私」はキリスト、「彼」「あの子」は私たち、「父」は父なる神だと考えると、この出来事はキリストの十字架につながります。キリストが私たちを保証し、罪の身代わりとなって、父なる神のもとに一緒に連れ帰ってくださるのです。
また、ヨセフの前に立つユダの姿は、主の前に立つ私たちの姿であるとも言えます。ヨセフはユダたちのすべてを知っています。主は私たちのすべてを正確に知っておられます。しかし、ヨセフも主の前提にあるのは赦しです。ただ求められるのは、悔い改めた心で真実を告白することです。それが赦しと和解への唯一の道です。ヨセフもユダも、それぞれキリストの役割を果たしました。
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