ヤコブの生涯

ヤコブの生涯

創世記47章をお読みください。

私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。(9)
私が先祖たちとともに眠りについたなら、私をエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってくれ。(30)

ヤコブは「約束の地」カナンに生まれ、兄から逃れて20年間カランの地に住み、再びカナンに戻りましたが、最後はエジプトに下りました。そこで17年生き長らえて147年の生涯を閉じます。放浪の人生でしたが、エジプトで死んでも、「約束の地」に帰る願いだけは失いませんでした。
ヤコブは自分の人生を振り返り、「不幸せだった」と総括しています。自己中心に生き、人から騙し取り、欲しいもの集めた生涯でした。そうして味わったのは恐れ、悲しみ、苦しみでした。兄に命を狙われ、母とは今生の別れをし、四人の妻と十三人の子供を持ちながらも、最愛の妻には先立たれ、晩年には最愛の子を20年余り失いました。
しかし、神の目で過去を振り返るなら、違ったヤコブ像も見えてきます。ヤコブは、アブラハム・イサクの祝福を受け継ぎ、族長としての役割を果たしています。十二人の男子をもうけ、「神の選びの民」を残しました。自業自得でたびたび窮地に陥りましたが、主の恵みを受けてその危機を切り抜けました。シェケム事件のときには、異教の神々をすべて処分しました(35:4)。「私も、失う時には、失うのだ」(43:14)と覚悟を決め、愛するベニヤミンをエジプトに送り出して、家族全体を守りました。そうして、最終的に、アブラハムの祝福の契約をイスラエル一族に受け継がせたのです。
人は恥ずべき罪も犯せば、取り返しのつかない失敗もします。だからといって、「自分の人生は不幸だった」と決め付ける必要はありません。確かに悔い改めるべきことは悔い改めるべきです。しかし、主はそんな私たちを用いて、神の国の働きを進めていかれます。
ヤコブもパロの前で、契約の民の族長として神の恵みを語り、エジプトを祝福してもよかったのだと思います。「我の強さのゆえに悲しい出来事も引き起こしたが、それでも主は一族をお守りくださり、ヨセフを祝福する者としてエジプトに送ることができた」と。
素晴らしい人生でなければ、神の愛と真実を告げられないわけではありません。成功を語ることだけが、神の偉大さを語ることなのでもありません。自分の罪や弱さや欠点や失敗にもかかわらず、主が私を見捨てず、受けるに値しない祝福を注いでくださったことを感謝する謙虚さが、神の愛と真実を示すことになります。
さて、ヤコブはヨセフに最後の希望を託します。それは「約束の地」の先祖の墓に葬られることです。ヤコブは、父祖の地カナンが永遠の安息の地だと信じていました。「エジプト」は一時的な寄留地です。そこで死んでも、「約束の地」に戻りたいのです。ヤコブにとって、「約束の地」は「天の故郷」、「神の国」の雛形でした。「エジプト」に葬らず、「マクペラの墓」に葬ってくれとは、「天の故郷」への憧れです(へブル11:16)。
私たちもこの世にあって、旅人であり寄留者です。どこにたどり着き、どこで死んでも、「永遠の故郷」に帰ります。