契約の民の再建
- 2020.11.02
- 三つのテーマで読む創世記(下)
創世記50章をお読みください。
ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(19-20)
ヤコブが死に、その葬儀が終わった後、ヨセフの兄たちは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない」(15)と、なお恐れていました。ヨセフは自分の前にひれ伏す兄たちに、涙をもって和解の再確認をします。
この和解が、契約の民イスラエルを分裂、崩壊から守りました。それだけでなく、宰相ヨセフ亡き後、イスラエルが一つとなって異教の地エジプトで生き抜き、一民族に成長するためには、絶対に不可欠な条件でもあったのです。
空中分解し雲散霧消してしまう寸前にまで至ったイスラエル一族を、主がアブラハム契約のゆえに、背後にあって守ってくださいました。その恵みのゆえに、和解が成し遂げられたわけですが、イスラエル側にもその恵みに応答する人間がいなければなりませんでした。そのことを、もう一度確認しておきたいと思います。
まず、どんな憎しみや争いの渦中にあっても、神の御心に沿って忠実に歩む者がいた、ということです。それが、兄たちに売られて奴隷となったヨセフです。主がともにいてくださり、自暴自棄にならず、誘惑に負けず、誠実を貫き通しました。またユダも、ヨセフを殺さずに守るという最低線の真実を守りました。
次に、人間の悪意によって起こる出来事のただ中にいても、そこに働かれる神の計画が見えている者がいた、ということです。いうまでもなく、ヨセフです。それが、「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした」という言葉に表れています。
また、自分を犠牲にしても、兄弟を守ろうとした者がいた、ということです。父ヤコブとの約束を破らず、自分の身を挺して弟ベニヤミンを守ろうとしたユダです。
そして、力ある立場にあっても、謙虚になれる者がいた、ということです。もちろんヨセフです。ヨセフは、兄たちを裁き、個人的に復讐できる地位にいても、「私は神の代わりでしょうか」(19)とへりくだることができました。
最後に、心打ち砕かれ、自分の罪を認める者たちがいた、ということです。「今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください」(17)。この一つが欠けても、イスラエル一族は成り立ちゆきませんでした。誠実、霊的洞察、正直、自己犠牲、謙虚、悔い改めが、「祝福の契約」を次世代に継承させたのです。
和解が希望をつなぎます。和解しなければ、未来に希望はありません。
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