ステーション10 ガリラヤ(前半)

ステーション10 ガリラヤ(前半)

歴史的背景

1世紀のイスラエルでは、よくラビが旅をしながら教えていました。地方を巡回し、屋外で語り、従う人々を集めていきました。ラビが教えたのは、数百年にわたり預言者や知者が神に関して語ってきたことがらです。主イエスも、その伝統的な教えの根幹を語ったのであり、当時として特別に奇抜だったわけではありません。しかし、主イエスが他のラビと違ったのは、自らメシアだと宣言し、権威をもって教えたことです。イエスにつき従う人が増えると、イスラエルの宗教的・政治的グループは、その影響を様々に受けました。

イエスは、バプテスマのヨハネを通して、エッセネ派とのつながりを持っていたようです。一方、サドカイ派にはイエスとの接点や共通点がほとんどありません。彼らは裕福な上流階級であり、その宗教的儀式は形骸化していました。多くは神殿で神に仕える祭司であり、その務めの中心はいけにえを捧げるなどの儀式でした。口伝の律法を退け、「目には目を」など多くの御言葉を字義的に解釈する一方、天使の存在と復活は信じていませんでした。

熱心党は、ローマに対し軍事的勝利を目指すグループです。彼らは、メシアであるイエスが反乱軍を率い、ローマの支配からイスラエルを解放することを期待していました。イエスの弟子シモンは、熱心党員でした。

パリサイ派の教義はイエスの教えに近かったため、パリサイ人は主イエスの宣教に最も大きな影響を受けました。彼らの教えは、イエスの教えとほとんど同じでした。例えば、神は未来のことをすべてご存じだが、人間には完全な道徳的選択の自由があるとし、また神は義なる人々に報い、悪人を罰すると信じていました。イエスが山上の説教で語られたことも、パリサイ人の理想と同じでした。しかし、主イエスは、パリサイ人の指導者の中に偽善的で自己義認的な人々がいることを感じ取り、その誤りを指摘しました。

パリサイ派という名称は、歴史から消えましたが、彼らの宗教的慣習はユダヤ教の基準となっていきました。新約聖書を読んで、パリサイ人を偽善者と同じようにとらえる人々がいますが、それは誤りです。

ローマ兵がナザレのイエスを十字架刑に処したのは、紀元30年頃です。ローマはおよそ1世紀の間に、5万から10万のユダヤ人を十字架にかけました。ところがイエスだけは死んで復活したのです。これは、歴史上、最も大きな影響を世界に与えた出来事です。事実、イエス・キリストの信仰共同体は世界に広がり、またキリストの名において、様々な国々や文化が興っては滅びました。2000年経った今も、イエスを信じる者たちは地に満ち、その名を賛美し、再臨を待ち望んでいます。

さて、紀元64年、ローマに大火がありました。時の皇帝ネロはクリスチャンを放火の犯人に仕立て、大規模な迫害を行い、多くのクリスチャンを虐殺しました。またローマ帝国は、策略を練り、ユダヤ人を巧みに支配してきました。
しかし、イスラエルでは、大きな政治的変化が相次ぎました。ローマがユダヤ人に対し、異教のいけにえを神殿で捧げるよう要求すると、熱心党主導の反乱があちこちで勃発しました。反乱は国中に拡大しましたが、圧倒的な軍事力を誇るローマ軍によって鎮圧され、数千のユダヤ人が虐殺されました。紀元68年の春と秋、そして69年、ローマ軍は次々と城壁都市を攻め取り、破壊し、大量殺戮を行い、村々を焼き払いました。

紀元70年、ローマ軍はエルサレムを包囲します。籠城(ろうじょう)したユダヤ人らはローマの軍事力と残忍さに怯(おび)え、いつ攻撃されるかわからない緊張と食料不足の不安の中で、5か月を過ごしました。そしてついに、将軍ティトスの率いるローマ軍が城壁を打ち破り、殺戮と破壊の限りをつくしました。背が高く姿の美しいユダヤ人の男約700名は「戦利品」として生かされましたが、残りは町の東にあった円形劇場に集められ、見世物として殺されました。こうしてユダヤ人たちは、戦死したり、猛獣に食い殺されたり、生きたまま焼き殺されたりしたのです。
城壁は崩れ、神殿も焼け落ちました。ユダヤ人はいけにえを捧げる場所を失ったのです。

しかし、戦争が終わりを告げたのは、死海のほとりの高台にある要塞マサダが陥落したときです。3年近くにわたる包囲戦の末、ローマ軍はついに要塞の一角を崩して攻め入りました。しかし、そこで兵士たちが見たものは、累々と横たわる熱心党員とその家族の死体でした。彼らは、ローマに捕らえられて処刑、あるいは陵辱されることをよしとせず、妻や子供たちを殺したあと、自ら命を絶ったのです。戦いは、960名の集団自決をもって終わりました。
この第一次ユダヤ戦争により、ユダヤの民はその数を大きく減らし、ユダヤ教も消滅の危機に直面しました。しかし、その危機を乗り越えて、「シェマ イスラエル」の叫びは、世代を継いで、響き続けたのです。

次いで、紀元132~135年、ユダヤ人は再び、反乱を起こします。ローマ帝国がエルサレムにユピテル(ジュピター)の神殿を建設しようとしたことを発端に、シモン・バル・コクバが「メシア」として立ち上がった第二次ユダヤ戦争です。バル・コクバの乱とも呼ばれます。しかし、ローマ軍に鎮圧され、多くのユダヤ人が虐殺され、町は再び破壊されました。この反乱に激怒したローマ皇帝ハドリアヌスは、エルサレムをアエリア・カピトリナという名に変え、ローマ文化の中心地として再建しました。ユダヤ人は町に入ることを禁止され、入った者は処刑されると定められました。また、「ユダヤ」の名を地図から消し、その一帯をパレスチナ(ペリシテ人の地)と改名しました。

マサダ要塞の陥落、そしてバル・コクバの乱を最後に、ユダヤ人の組織的な民族的集合体はなくなり、近代まで復活することはありませんでした。イスラエルの地からユダヤ人住民が完全に消えてしまうことはありませんでしたが、2000年の間、イスラエルの地は繰り返し異民族に侵略され、常に他民族の占領下にありました。

この二つのユダヤ戦争のあと、ユダヤ人学者はその数を大きく減らしました。ユダヤ教では、律法や口伝は、学者と弟子が一対一で学ぶのが伝統でしたが、学者が減ってしまったため、口伝の律法を文字で記録することが必要になってきました。そこで、ラビ・ユダによって、「ミシュナ」と呼ばれる、トーラーの注解書が編纂(へんさん)されました。後に、ミシュナの解説書である「ゲマラ」も作られます。この2つは「タルムード」という、ユダヤ教の教えと伝統の注解書となりました。
後代のクリスチャンは、タルムードを読んだこともないのにその書を激しく批判し、イエスの名のもとに焚書(ふんしょ)に処してきました。しかし、現代の新約学者は、タルムードが、ユダヤ教と初代教会を理解する上で、非常に優れた情報源であると認めています。

キリスト教会が成長し始めたのは、ローマに隷属していた時代です。教会はユダヤ教の地域的な一派として始まり、地中海世界に広がりました。改宗した異邦人が教会内で多数派となると、残念なことに、キリスト教はユダヤ教の伝統のルーツを離れていきました。2世紀には、キリスト教会の指導者たちは礼拝の日を、「安息日」(土曜)ではなく、「主の日」(日曜)に変えました。今日、クリスチャンの大部分が日曜日に礼拝を捧げます。
しかし、ユダヤ教の安息日は、聖書にある永遠の命令に基づいたもので、数千年の歴史を持っています。私たちもその事実を理解し、尊重するべきなのです。
また、エルサレム神殿を失ったユダヤ教の礼拝にも、大きな変化が起きました。それは、礼拝の中心が、神殿からシナゴーグへ移ったことです。各地にあるシナゴーグで、きよめの儀式、トーラーの学びなどが行われるようになっていきました。