ステーション11 西の壁(前半)

ステーション11 西の壁(前半)

歴史的背景

紀元4世紀初め、イスラエルはビザンチン帝国(東ローマ帝国)の支配下に入りました。
313年、コンスタンチヌス帝によってキリスト教が公認され、さらに、392年、テオドシウス帝によってキリスト教が国教化されると、ユダヤ人は少数派になり、保護を受けることのできない立場になりました。帝国の為政者たちがキリスト教を政治的目的で使い始めると、ユダヤ人の社会的地位を貶めるような法律が次々と作られたのです。ユダヤ人は様々な難癖をつけられ、非道な手段で迫害されました。さらにキリスト教会にも抑圧され、経済的にも逼迫(ひっぱく)して、ユダヤ教は帝国下で弱体化していきました。その結果、学問的な中心はイスラエルの地からバビロンに移りました。
バビロンでは、ユダヤ人はおおむね平和な生活を維持することができ、繁栄を取り戻していきました。バビロンのユダヤ人社会は、世界のユダヤ人の先導役を果たすようになっていきました。

紀元614年、イスラエルの地はペルシャ帝国に征服され、629年にはビザンチン帝国に再征服されます。その後、アラブ人のイスラム勢力に侵略され、638年にはアラブ人支配が確立します。アラブ・イスラム支配下で、ユダヤ人とキリスト教徒は常に暴力と迫害に脅かされていましたが、ユダヤ人は優れた忍耐力を発揮して、生き続けました。

1099年、西ヨーロッパのカトリック教会の諸国が、イスラム勢力から聖地エルサレムを奪回するべく、最初の十字軍を送りました。十字軍は、遠征途上で数千のユダヤ人を虐殺した後、「キリストよ、我らはあなたをあがめます」と歌いながら、エルサレムに住むイスラム教徒とユダヤ人を殺戮(さつりく)しました。

1517年になると、イスラムのオスマン=トルコがエルサレムを征服し、1536年、スレイマン1世(スレイマン大帝)がエルサレムの城壁の再建を開始します。1660年ごろには、東地中海世界に広がるオスマン=トルコの支配地に、400万人を超えるユダヤ人が居住するようになりました。スレイマン1世そ死後は、オスマン帝国はイギリスの援助を受けつつ、衰退の時代に入っていきました。

1917年の12月、イギリスがオスマン=トルコを滅ぼすと、エルサレムは第二次世界大戦後までイギリスの統治下におかれます。イギリスが委任統治した地域は、ヨルダン川西岸にあるパレスチナと呼ばれる地域(古代、ユダヤ人と敵対した「ペリシテ人」に由来する名称。ローマ帝国ハドリアヌス帝がユダヤ地方にこの名をつけた)と、東岸にあるトランスヨルダンと呼ばれるアラブ国家でした。委任統治領はもともと、ユダヤ人の入植を促すために設けられたものでした。しかし、アラブ人住民が反対し、ユダヤ人の入植をやめさせるよう要求しました。アラブ人勢力は、ツファットとヘブロンで多くのユダヤ人を虐殺し、さらにナチス・ドイツと結んで、ユダヤ人に対する暴力・殺戮を繰り返すようになりました。

第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるホロコーストで、世界のユダヤ人の3分の1が虐殺されました。ユダヤ人は自分たちの安住の地、郷土を強く求めるようになります。1947年、国連はパレスチナの分割案を提示しました。その案は、イスラエル国家と、ヨルダン川西岸とガザ地区を含むアラブ国家を同時に建設する、というものでした。ユダヤ人指導者たちはその計画を喜んで受け入れましたが、アラブの指導者たちがそれを拒否しました。彼らは、ユダヤ人に土地を与えることはできない、それでも建国するというなら彼らを海へ追い落とすまでだ、と主張して譲りませんでした。1947年11月27日、国連はパレスチナ分割案を投票で決議し、イスラエルは翌年5月14日、独立を宣言しました。

しかし、イスラエル建国の翌日、エジプト、ヨルダン、シリア、サウジアラビア、レバノンのアラブ連盟5か国がイスラエル宣戦布告をします(第一次中東戦争、イスラエル独立戦争)。イスラエル軍は圧倒的に劣勢でしたが、国防軍を編成して反撃し、1949年、停戦協定に持ち込みました。しかし、ガザ地区はエジプト支配下に、そしてヨルダン川西岸とエルサレムの半分をヨルダン支配下に置かれました。
次いで1956年、エジプトがスエズ運河の国有化を宣言したことで、それに反対するイギリス、フランス軍とともに、イスラエルはシナイ半島で軍事行動を起こし、エジプト軍と武力衝突します(第二次中東戦争、スエズ戦争)。イスラエルはシナイ半島全体を手に入れましたが、1957年、それを進んでエジプトに返還しました。

1967年、エジプトは、「イスラエル・シオニストを絶滅させる」ための軍事計画を開始しました。それは国際的な合意や国際法に全面的に反する行動です。エジプトはシリア、ヨルダンとともに、イスラエルの国境に軍を配置し、過激な敵対発言を繰り返しました。「イスラエルを完全に破壊する」「イスラエルを地図から消す」といった脅し文句を並べたてたのです。そのような中で、アラブ連合軍の軍事行動が迫り、イスラエル側はやむなく先制攻撃をしました(第三次中東戦争、六日戦争)。
戦闘開始わずか6日で、イスラエルはシナイ半島全体を占領し、ヨルダン川西岸を支配下に入れ、ゴラン高原を手に入れました。イスラエルの勝利は決定的でしたが、それと引き換えに多くの人命が失われました。ユダヤ教、キリスト教、イスラムの聖地であるエルサレムの宗教遺跡や建造物を保護するために、イスラエル軍は旧市街での砲撃を避けたため、聖地を巡る戦いでは非常に多くの犠牲者を出すことになったのです。

しかし、この戦争でイスラエル人の心を歓喜させたのは、エルサレム奪還です。古代ローマ帝国によるエルサレム陥落以来、初めて、ダビデの町はユダヤ人の支配下に入ったのです。