ステーション12 スペイン(後半)

ステーション12 スペイン(後半)

教えるための情報

周期的に訪れる迫害と苦難の日々、キリスト教会にもユダヤ教指導者にも抑圧されながら、それでもスペインのユダヤ人は栄えました。彼らは、世界の歴史上最も影響力があり、文化的にも豊かなユダヤ人社会を作りました。この共同体から、科学者、天文学者、医者、哲学者が輩出され、その研究や発見が全世界に影響を与えたのです。ユダヤ教で力のある研究者の多くが、スペイン出身であり、彼らの著作は今日に至るまで、ユダヤ教の教えを形作っています。

スペインのユダヤ人の日常生活は、その時代の政治的状況に左右されていました。イスラム教に抑圧された時代には、住む場所も就ける職業もすべて制限されていました。ユダヤ教の礼拝場所は、イスラム教徒の礼拝場所より高くしてはならず、ユダヤ人が道でイスラム教徒とすれ違うときには、通れるように泥の中によけなければなりませんでした。最悪の場合、ユダヤ人はイスラム教に強制的に改宗させられました。それは、クリスチャンも同様でした。

キリスト教会による迫害の時代には、ユダヤ人は服にそれと分かるような印を付けるか、決まった形の帽子をかぶることを要求されました。住む場所は限定され、政府や軍を始め様々な職業への就職が禁じられ、クリスチャンと結婚すると死刑になり、市民としての基本的権利の多くをはく奪されました。

キリスト教への改宗を強要され、マラノス(豚)と呼ばれる「新教徒」となった時代、状況ははるかに厳しいものになりました。スペインのユダヤ人たちは、福音を教えられることなく、キリスト教徒になるか否かの選択を迫られました。キリスト教の愛の模範を示されることもありませんでした。キリストの愛が示されていたならば、教えを信じるかどうか決められたかもしれませんが、実際には、十字架を振り回して「改宗しなければ死だ」と叫ぶ暴徒に襲撃されたのです。ユダヤ人たちの多くは洗礼を受け、隠れてユダヤ教の慣習を守り続けました。隣人の疑いの目を恐れ、キリスト教の儀式をしていると見せかけて、秘密裏にユダヤ教の儀式を守ったのです。手を洗う回数が多すぎないように、また、洗ってはならないときに洗わないように、特定の食物を拒まないように、土曜日に静かに過ごしすぎないように、気をつけなければなりませんでした。安息日のろうそくは地下の貯蔵庫でつけるなど、祝日の伝統を守るための独特な方法を考え出しました。秘密を守れる年齢になるまで、子供たちにはユダヤ人だと教えませんでした。このように、「新教徒」たちは、見つかること、殺されることをいつも恐れて生活せざるを得なかったのです。

しかし、スペインの為政者がユダヤ人に好意を持っていた時代には、快適で幸せな生活を送ることができました。田舎の生活を好んだ人々もいましたが、大部分は都会で生活し、大きなシナゴーグを建て、社会の一員として重視され、喜びに満ちてモーセの律法を守りました。非ユダヤ人の人々とも関係を結び、宗教を教えない大学でも学び、スペインの貴族と婚姻関係を結びました。多くが裕福な貴族でしたが、豊かでなくても、おしなべて快適な生活を送っていたと言えます。

ユダヤ教の哲学者や知識人の中で最も偉大な学者は、モシェ・ベン・マイモンで、通常マイモニデスと呼ばれています。1135年に生まれたユダヤの賢人であり、その著作と研究成果は信じられないほど多分野に及び、驚くべき広範囲の活動をしています。ミシュネー・トーラーは、全律法に体系的なコードを割り当てた初めての試みです。また、ユダヤ教の哲学書の傑作、『迷える人々のための導き』を書きました。それだけでなく、ミシュナーすべてを解説した注解を出版し、数冊の医学書を書き、エジプトのスルタンの専属医となり、カイロにあった大きなユダヤ人共同体のリーダーになりました。ユダヤ人の中には彼の哲学に賛同しない人もいますが、大部分のユダヤ人にとっては英雄です。彼が死んだときエジプトのユダヤ人が、「神の箱が奪われ(た)」(第一サムエル記4章11節)という節を引用したほどです。

マイモニデスは、非ユダヤ世界にも影響を与えたユダヤ人のひとりです。ユダヤ教以外の神学者も彼の教えと著作に興味を持ち、トマス・アクイナスなどのキリスト教神学者も影響を受けています。

今日、ユダヤ教学者の間で、マイモニデスは最も広く研究されています。彼はミシュネー・トーラーや、『律法の書』、その他『ユダヤ教の信仰十三箇条』などを著述しました。この『十三箇条』はユダヤ教のほとんどの祈りの書に出て来るものであり、神は唯一であること、神が律法の起源であること、そして死後のいのちについて明確に述べています。第十二箇条には、こうあります。「私はメシアが来られることを心から信じます。メシアの到来が遅れていても、私は待ち続けます」。

スペイン国外へ逃げたユダヤ人は、その豊かな知的財産と信仰の財産を受け入れ先の国々へと運び、大いに益をもたらしました。フェルナンド2世とイサベル1世は、「スペインを浄化せよ」という法令に署名をしましたが、彼らは計り知れないほど多くのものを失ったと言えます。追放されたスペインのユダヤ人を、トルコのスルタンは温かく迎え入れ、次のように語りました。「アラゴンのフェルナンドを、どうして賢王と呼べるだろうか。同じフェルナンド王が、自分の国を貧しくし、我々の国を富ませたのだ」。

学びの進め方

参加する生徒や先生の理解度に合わせて、2種類用意してあります。

方法1

リーダーは、平和と繁栄の「黄金時代」に生きるスペインの若きユダヤ人(男性か女性)を演じます。アシスタントは召使いの役になってください。

ファンファーレの音と歓声で、生徒たちをお客さんとして歓迎し、床に座らせます。まず、自分たちはイスラエルからスペインへ移民した者だと自己紹介し、こう語ります。「長い間、スペインでの生活は非常に困難でした。クリスチャンと同じ神を礼拝しているのに、スペインの教会は時にユダヤ人を誤解し、迫害しました。しかし今は、状況が良くなり、自分の父親は非常に豊かになって、ペットも飼っています。裕福な若いユダヤ人たちは高等教育を受け、様々な分野で活動しています」。リーダーが話している間、召使い役のアシスタントは子供たちにお菓子を配りましょう。ごまから作った健康的なおやつです。「このおやつは、ユダヤ人が国から国へと移り住むことで世界中に広がったんですよ」と説明します。

次に、宗教的な自由が与えられ、感謝していることを伝えます。この時代、人々は迫害を恐れることなく、唯一真の神を礼拝し、教えを守ることができるようになりました。他の国々のユダヤ人同胞は、このような自由を享受してはいません。しかし、スペインにおいても、ずっと自由だったわけではありません。最後に、「私や家族が今経験しているこの自由は、いつまで続くのだろうか」と不安そうに話してください。

方法2

リーダーはアシスタントとともに、「新教徒」の若者の役になります。

暗くした部屋に生徒を招き入れ、秘密がばれないように静かにするよう指示します。生徒を床に輪になって座らせ、小声で状況を説明します。

「私は、スペインの地で以前は家族と一緒に裕福で満ち足りた生活を送っていた。しかし、両親は脅迫されてキリスト教への改宗をさせられたんだ。キリスト教の内容なんて、全く知らないのにね。そして今、隠れて警戒しながら生活をしているんだ」。
自分たちはユダヤ人ではないと、近所の人に信じ込ませるには、どうすればいいか。あるいはユダヤ教の習慣を続けていることを隠すために、どんなことをしなければならないか。危険を冒しても、ユダヤ教の信仰を守ることは重要なのだ……ということを説明します。

そして最後に、アブラハム、イサク、ヤコブの神を、人目を恐れることなく礼拝できる日が来るのを心から待ち望んでいると、伝えてください。

方法1、2のどちらの場合も、部屋は居間のような感じにします。布を画鋲やテープで壁に留めてカーテン風にします。その「カーテン」の前にテーブルを置いてダイニングテーブルに見立てるか、あるいは本やろうそくを置いてライティングデスクに見立てます。植物や、数脚の椅子を置けば、部屋は完成です。方法1の場合は、部屋の電気をつけたまま、ろうそくを灯します。方法2の場合は、ろうそくをつけ、隠れているという雰囲気を出すために部屋は暗くします。

衣装

女性は、床までの長さのドレスに、ぴたりとしたベストを着ましょう。髪留め、宝石、ショールなどの飾りを身に着けます。男性は、かかとまでの長さの脚絆(きゃはん)に、ブーツか黒い靴を履き、裕福な人らしいひざまでのチュニックを着て、ゆるくベルトを巻きます。

食べ物

ごまの入った食べ物なら何でもOKです。中東食材店で売っているごまキャンディーは人気があります。ごまクラッカーを白ブドウのジュースと一緒に食べるのも好まれます。

知っていましたか

  • ユダヤ人の地図作り職人や天体学者たちは、スペインの海外進出に多大な貢献をしました。彼らの制作した地図、表、道具は、エンリケ航海王子、ヴァスコ・ダ・ガマ、クリストファー・コロンブスなど有名な探検家の旅を可能にしたのです。
  • スペインのユダヤ人は、ユダヤ教の習慣を続けていないことを近所の人に示すため、台所の窓に豚肉のソーセージをぶら下げることもよくありました。
  • クラシック・ギターを鳴らし、足を踏み鳴らし、スカートを回して踊る「フラメンコ」はスペインで発展しましたが、それはムーア人やジプシー、そしてユダヤ人にも影響を与えています。
  • 食後に甘いものを食べる習慣は、スペインのユダヤ人から始まり、世界に広がりました。いわゆるデザートは、ユダヤ人がスペイン料理と自分たちの料理と組み合わせた時に取り入れたものです。デザートはごく地域的な習慣でしたが、ユダヤ人がスペインから追放されて、他のヨーロッパ諸国やトルコに移住したとき、その習慣も持って行き、そこから世界へと広がったのです。