ステーション16 ポーランド(前半)

ステーション16 ポーランド(前半)

歴史的背景

800年、カール大帝が、西ヨーロッパと中央ヨーロッパを含む西ローマ帝国の皇帝になりました。ユダヤ人は帝国内への居住を促され、その多くが商人として身を立て、ヨーロッパ、地中海地域、そして東ヨーロッパで、貿易に携わりました。その後1000年頃まで、ユダヤ人にとって比較的平和な場所でした。時に一部地域で痛ましい事件が起きたこともありましたが、それ以外は快適に暮らすことができ、襲撃されることもありませんでした。彼らはヘブル語でアシュケナジと呼ばれるようになり、東ヨーロッパはユダヤ教の中心地となりました。多くの都市にユダヤ教の大学が建てられ、学問が花開いたのです。アシュケナジのラビは、東ヨーロッパだけでなく、他地域でも、影響力を持つようになりました。

しかしながらこの良い時代は、十字軍が来襲した11世紀末に、終わりを告げました。十字軍は、聖地エルサレムを異教徒であるムスリムから奪回するという大義名分で始まったのですが、宗教的情熱に駆られた人々は次第に狂信的になっていきました。十字軍の協力者や騎士たちに率いられた一団の小作農たちが、無防備なユダヤ人共同体を襲い、殺戮と強奪を行ったのです。第一回十字軍だけで何千ものユダヤ人が殺され、ユダヤ人共同体は壊滅していきました。続く200年の間、さらに8回の十字軍が送られ、ヨーロッパと聖地エルサレムにおいて、ユダヤ人に対する暴虐が繰り返し行われたのです。

十字軍はまた別の面でも、ヨーロッパのユダヤ人の生活を圧迫することになりました。聖地へ向かう際、キリスト教徒が貿易の利益を独占できる仕組みを整えたため、貿易におけるユダヤ人の重要性が低下したのです。この時代、貿易事業の組織や工業の組合が発展しましたが、ユダヤ人はそのいずれからも締め出されました。通常の経済活動から追い出された彼らは、資本の投資先や方法を変えざるを得ませんでした。当時、教会はクリスチャンに金貸し業を禁じていたため、ユダヤ人はヨーロッパに初の銀行を設立し、金融のシステムを発展させていきました。ユダヤ人にとっては自然な流れです。大地主から僧、王に至るまで、みな金を必要としていたので、金融業はリスクも大きいが、利益も非常に大きい事業となりました。

この時代、ヨーロッパには迷信的な小作農が多く、苦難や災害が起きると、誰のせいでそれが起きているのか、その「悪の力」の根源を特定しようとする習性がありました。貧困、戦争、飢饉(ききん)、大火が彼らを襲い、特に1348~1350年には、西ヨーロッパの3分の1が黒死病(ペスト)で死にました。そのような中、非キリスト教の少数派であったユダヤ人は、社会のあらゆる災いの原因だとして殺戮されたのです。

このように、中世ヨーロッパは、ユダヤ人にとって非常に生きにくい土地となっていきました。彼らは存在しているだけで、激しい迫害と抑圧の対象となりました。数万人が殺され、拷問され、火あぶりにされ、自殺を強要されました。儀式で人を殺したとか、クリスチャンの血を飲んだとか、井戸を汚染させて伝染病をもたらしたとか、カトリックの聖餐式を冒瀆
したなどといった言いがかりの他、ありとあらゆる種類の噂をでっち上げられました。大衆や狂信的な人々の暴力にさらされ、大量殺戮の犠牲者となりました。ひとつの地方から追放されて他の地方に避難すると、そこからまた追放されてしまいます。しかし、この苦難の中で、ユダヤ人の宗教的伝統と信仰は、共同体を一つにし、耐える力と生き延びようという気概を生み出し、かえってユダヤ教は繁栄していったのでした。

西ヨーロッパから追放されたユダヤ人の多くは、ポーランドに逃れました。13、14世紀、ポーランドの諸侯の多くはユダヤ人の定住を奨励し、その保護を保証する法律を定めました。ユダヤ人たちは様々な才能や能力を携えてきたので、ポーランドの経済は大きな恩恵を受けました。熟練工の中には貨幣鋳造職人もおり、ポーランドで使われた最初の貨幣を鋳造しました。その貨幣には、ポーランド語ではなく、ヘブル語が書かれています。

ポーランドに最初に来たユダヤ人は金融業者でした。そのサービスはポーランドの為政者に歓迎されました。移民が増えると、ユダヤ人はあらゆる種類の貿易、国際交通網、農業など、ポーランドの全産業で、活発に活動しました。国の税吏となった人々もおり、農業収入を監督し、ポーランドの新領地開拓を携わった人々もいました。職人の中には、仕立屋、靴職人、毛皮職人、織工、石鹸職人などがいました。サービス業では、医者、弁護士、薬屋などがいました。

ポーランドのユダヤ人共同体が繁栄したので、魅力を感じたユダヤ人が、ヨーロッパ全土からさらに移住してきました。16世紀半ばには、世界のユダヤ人の80%ほどがポーランドに住むようになったのです。ユダヤ人はポーランドの社会に貢献したので、貴族から尊敬され、王国からは迫害されずにすみました。しかしながら、ポーランドの身分の低い人々や、キリスト教会の指導者は、ユダヤ人の成功をよく思いませんでした。ユダヤ人を排除したい人々と、ユダヤ人の存在価値を認め保護したい貴族との間に、不和が生じます。そのためにユダヤ人は、各地で暴動や追放運動にさらされることとなりました。しかしそれでも、中世ヨーロッパにおいては、他のどこよりも、ポーランドのユダヤ人を取り巻く環境は良かったと言えます。
ところが1648年、状況は決定的に変化してしまいます。コサックがポーランド王国に対して反乱を起こしました(フメリニツキーの乱)。ユダヤ人は、ポーランド王国側に加担する者と見なされ、経済的混乱の元凶とされ、暴力のターゲットとなりました。コサックの騎馬隊はユダヤ人を襲い、略奪し、共同体を破壊し、何万人ものユダヤ人が殺戮されました。
その後、ポーランドは近隣諸国と戦火を交え、その戦いは泥沼化し、18世紀にはロシアに占領されました。ロシアは数百年にわたり「ユダヤ人追放」政策を取ってきましたが、ポーランドを占領したことで、約100万のユダヤ人をロシア領に取り込むことになりました。

ロシア皇帝はユダヤ人に対し、「同化政策」を取りました。すなわち、ユダヤ人独自のアイデンティティを失わせ、ロシア社会に吸収するという政策です。ロシアの指導者たちは最初、制限を減らし特権を増やしてやることで、ユダヤ人に取り入ろうとしました。かと思えば、厳しい弾圧を行った時期もありました。しかし、どちらの方法も成功せず、ユダヤ人は「ロシア化」されることを拒みました。ユダヤ人の「うなじのこわさ(頑固さ)」をどうにかしようと、数え切れないほどの巧妙な策が試みられましたが、最終的に1795年、エカテリーナ2世が、ユダヤ人居住区にユダヤ人を強制移住させました。

ユダヤ人居住区の多くは、併合された元ポーランド領でした。「居住区」とは隔離された地域を指す言葉であり、1000人規模から数万人規模のゲットーでした。そこでは極度の貧困と不自由な生活を強いられました。居住区で生まれた男の子は12歳で徴兵され、強制収容所へ送られ、ひどい扱いを受け、飢えに苦しみ、強制的に洗礼を授けられました。ほとんどの場合、二度と戻ってくることはありませんでした。ゲットーに対しては、さらに大衆の暴力と迫害が加わり、多くの犠牲者を出すことになります。
しかし、迫害が激しくなればなるほど、それでも彼らは強くなりました。信仰と伝統を次の世代へと引き継がせるのだという熱い思いが、彼らに生き延びる力を与えました。すなわち、かのユダヤ民族の信仰告白です。「シェマー イスラエル、アドナイ エロヘイヌ、アドナイ エハド」「聞きなさい、イスラエル。主は私たちの神、主はただひとりである」。