ステーション17 ホロコースト(上)

ステーション17 ホロコースト(上)

歴史的背景

ヨーロッパのユダヤ人にとって、転換点となったのはフランス革命(1789年)です。フランスではユダヤ人に対する制限が緩和され、より大きな自由が与えられるようになりました。
1800年代初め、ナポレオンはユダヤ人の処遇を改善する政策を採りました。1808年には、征服したスペインやイタリアで行われていた宗教裁判を廃止し、ユダヤ人に自由を与える条項を含む法律を発布しました。すべてのゲットーの壁を取り壊し、帝国内のユダヤ人は平等であると宣言したのです。その後、ナポレオンが敵対勢力に敗北したため、ユダヤ人はゲットーに戻らざるを得なくなったものの、ユダヤ教をゲットーの外へ導き出そうという運動が始まり、ユダヤ教が非ユダヤ教の世界と衝突しなくて済む新しい時代を目指しました。

Joseph Borkowicsと妻のGenia,娘のRita。1938年、戦争前にポーランドに住んでいたユダヤ人の家族。

 

Abraham Raboyと妻のFegia,4人の子供たちBuncia, Shaindel, Beila, Aron。Raboy一家は1935年、戦争前にはソビエト連邦に住んでいた。Aronだけが生き残った。

 

「ユダヤの啓蒙(けいもう)」と呼ばれたこの運動は、中央ヨーロッパや東ヨーロッパで始まり、反ユダヤ主義が色濃い文化の中でも広がっていきました。ユダヤ人を解放しようというキリスト教徒の努力もいくらかはありましたが、基本的にはユダヤ人が自分の力で状況を改善していきました。ユダヤ人はにわかに、哲学、科学、技術革新、芸術の分野で活躍するようになります。19世紀のユダヤ人中流階級の活躍は、経済的な自由だけでなく、信仰の自由への鍵となりました。

 

「修正シオニズム主義」の若者グループであるBetarメンバーの集合写真。1937年、ポーランド。

 

「ユダヤの啓蒙」はユダヤ教の礼拝にも多くの変革をもたらし、礼拝音楽が変化しただけでなく、ユダヤ教の改革派の発展につながりました。ユダヤ人たちは文化活動に参加することを許され、その発展に大きく貢献しました。また、ドイツの工業化において大きな役割を果たし、科学や技術において多くの革新をもたらしました。ヘブル語はユダヤ人の言語として回復しました。イディッシュ語の文学や演劇と同じくらい、ヘブル語の詩や演劇が盛んになりました。

しかし、19世紀のユダヤ人社会において最も重要なできごとは、シオニズムの誕生です。モーゼス・モンテフィオーリ、ツヴィ・カリシャー、モーゼス・ヘス、ペレツ・スモレンスキンなどの熱心なシオニストが、長年にわたるユダヤ人迫害に対する唯一の解決策は故郷への帰還であると、強く主張しました。後にシオニストの父と呼ばれることになるテオドール・ヘルツルは、ヨーロッパの反ユダヤ主義があまりに根深いため、ユダヤ人が生き残れる唯一の方法は、完全に異邦人世界から脱出して、自分たちの国家を築くことだと確信しました。彼は1896年、第1回シオニスト会議を開き、国際シオニスト連合の結成へと導きます。やがて世界中に支部が置かれるようになりました。当初、シオニズム運動は多くのユダヤ人に反感を持たれましたが、それでもヘルツルは最初のイスラエル移住者たちに経済的援助をしてくれる人々を見つけることができました。

ユダヤ人解放政策以来、ユダヤ人はドイツや、東と南東のポーランドとチェコで非常に繁栄しました。ポーランドにおいてさえ、ユダヤ人の生活は大幅に改善し、デパートや工場を建設していきました。紡績、化学製品、重工業の分野では、近代的な技術を導入し、産業に革新をもたらしました。まだ小規模な職人や商人として貧困のうちに暮らしている人々も数千人いましたが、それでもイディッシュ文化の繁栄に伴い、ユダヤ人は少数派ながら、その影響力が顕著な存在となりました。

当時のヨーロッパのユダヤ人は、反ユダヤ主義が中世の偏狭なキリスト教指導者たちの迷信から出たもので、近代世界の啓蒙により消滅するだろうと考えていました。しかしながら、待遇の改善にもかかわらず、暗雲が立ちこめてきます。

ヨーロッパにおいて、反ユダヤ主義が再び火を噴きました。中世と同じように、近代の反ユダヤ主義の拠点もドイツになりました。昔から続く反ユダヤ主義の「神話」が復活し、ユダヤ人は社会のあらゆる階級の憎悪の的となりました。19世紀の不況に深刻な打撃を受けたドイツの労働階級に、ユダヤ人への敵意が蔓延(まんえん)していきます。新しい政治的グループ「キリスト教社会主義労働者党」は、ドイツの労働者の条件を改善することを約束し、国家の諸問題の根源はユダヤ人であると糾弾しました。

この時期出版された疑似科学(ニセ科学)の書物では、ゲルマン民族は金髪、青い目の優秀な民族の子孫であり、優れた種族チュートン人の子孫であるという主張がなされました。また、ユダヤ人は人間でさえない劣った種族であり、その存在はゲルマン民族の血の純潔を脅威にさらす、と喧伝(けんでん)したのです。

同じ時代、アドルフ・ヒトラーという名の若者が、オーストリアで育っていました。十分な教育を受けず、心が荒んでいた彼は、ウィーン市長や同国の指導者たちが語る反ユダヤ主義の論理や、貧しい労働者階級だった父親のたわごとばかりに耳を傾けました。こうして若い段階で、ドイツ民族は優秀であり、ユダヤ人は劣等であるという独自の思想を作り上げていきました。
当時の典型的反ユダヤ主義は、「ユダヤ人があらゆる災厄の根源であり、ユダヤ人を除けば世界の問題は解決する」と主張していましたが、ヒトラーのユダヤ人憎悪はそれをはるかに超えたものでした。彼は、「神は暴君であり」、「人を窒息させ、生を否定する命令」を世界に強いていると考えていました。この歪んだ世界観に立って、神は唯一であり道徳的基準もただ一つだとするユダヤ教の世界観を撲滅しようとしたのです。

1918年、ドイツは第一次世界大戦で連合国軍に大敗します。翌1919年、ドイツ政府はヴェルサイユ条約に署名し、軍備増強を禁じられ、戦勝諸国には莫大な賠償金の支払いを命じられました。多くのドイツ人はこの条約を、不平等であり屈辱的であるとして反発しました。

1920年代、ヒトラーがナチ党を結成したとき、党員はわずか数十名でした。しかし、社会が不景気に苦しむ中、国民はナチのメッセージに共鳴していきます。「ドイツの労働者に仕事を」、「問題の原因はユダヤ人だ」という2つのメッセージを人々は聞き、党員数は急速に増加していきました。1932年の国民投票でナチ党は第一党となり、1933年1月、ヒトラーはパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領によってドイツ共和国首相に任命されました。その後半年も経たないうちに、民主主義はドイツから締め出されることになります。

アドルフ・ヒトラーとハインリヒ・ヒムラー。1938年、ドイツ、ニュルンベルク市。

 

権力を手にしたヒトラーは、すぐにユダヤ人に対する攻撃を開始しました。1933年末には、一部のユダヤ人の市民権がはく奪され、彼らの店や商売はボイコットを受け、多くの職業に就くことができなくなり、そして、ダッハウには最初の強制収容所が建設されました。この政策はユダヤ人を狙い撃ちにしたものであり、不吉を感じた多くのユダヤ人が「逃げられる間に」ということで国外へ避難しました。しかしながら、状況が改善するだろうと期待した人々も多く、ユダヤ人の半分がドイツに残りました。

解放後の、グーセン強制収容所(マウトハウゼンの支所収容所)の死体焼却場。

 

1935年に制定されたニュルンベルク法により、ドイツ国内の全ユダヤ人の市民権がはく奪されました。少数派であるユダヤ人から保護が取り去られ、状況が改善するのではないかという淡い期待は、粉々に砕かれました。ユダヤ人の自由や行動を制限する法案がいくつも可決され、迫害がさらに激しくなり、ついにはユダヤ人絶滅計画へと進みました。もし戦争マシーンと化したナチスがすべての力と資源を最後まで使い切ったなら、連合国を打ち破り第二次世界大戦に勝利したかもしれない、と考える学者も少なくありません。しかしながら戦争が進むにつれ、ヒトラーの優先事項は戦争に勝利することではなく、ユダヤ人の絶滅であることが明らかになります。ユダヤ人作家ジョアン・コメイは、著書『ディアスポラ・ストーリー』の中で次のように書いています。

「第二次世界大戦が勃発して2年の間に、何百万ものユダヤ人がナチス支配下のヨーロッパに閉じ込められました。ナチスの支配領域は、英仏海峡からロシアの中央まで広がっていました。ユダヤ人は集められて強制収容所へ送られ、ゲットーの壁に閉じ込められるか、ドイツの軍需産業の工場で強制労働させられました。1941年春、ヒトラーは「ユダヤ人問題の最終解決」を承認しました。これは、ユダヤ人の民族的抹殺を意味しました。1941年夏から、訓練を受けた部隊がこの大量殺戮のために投入されます。1941年1月20日、ベルリン郊外のワンシーで開かれた会議で、ユダヤ人絶滅計画の詳細な遂行手順が決められ、強制収容所に特別なガス室を設置することも決定されました。計画の実行は、ヒムラー率いるナチス親衛隊SSに委ねられました。戦争の圧力が強まる中、ヒトラーの関心はヨーロッパのユダヤ人を全滅させることに注がれていました。大量殺戮の恐怖は国から国へと広がっていきます」。

Anna Glinberg, 3歳、ソ連のキエフ出身のユダヤ人の子供。1941年9月29、30日、キエフのユダヤ人3万3千人以上が殺戮されたバビ・ヤール大虐殺で、殺される。

 

「戦争末期、進軍してきた連合国軍が、死のキャンプを次々に解放していったとき、そこで見たのは、屍のような姿で生きている囚人たちでした。ナチスによるドイツ第三帝国が瓦解(がかい)し、ベルリンの地下壕でヒトラーが自殺したとき、『最終解決』によって実に600万人のユダヤ人が殺戮されていました。世界のユダヤ人の3人に1人が殺されたのです。ホロコーストは、世界の歴史において他に例のないほどの大惨劇でした」。