ステーション17 ホロコースト年表

ステーション17 ホロコースト年表

次の情報は、『ダニエルの物語』の教師用ガイドから取ったものです。

1933年1月30日         ヒトラーがドイツの首相となる。

1933年3月23日         ダッハウ強制収容所ができる。最初の囚人は政治犯だった。

1933年4月1日          ナチ党の主導で、ユダヤ人の産業をボイコットする運動が国中に広がる。ユダヤ人の店の前にナチスの警備兵が立ち、買い物できないようにする。店の窓には、ユダヤ人の呼称であるJudeが書きなぐられ、黒と黄色のダビデの星が描かれた。買い物をする者は脅されたり、物理的に妨害されたりした。また、そこで買い物をするドイツ人は、写真が撮られ、名前とともに地域新聞に掲載されるという警告文が貼られたりもした。しかし、そのボイコット運動は、広い支持を得たわけではなかった。

1933年4月25日         ドイツの学校や大学に入学できるユダヤ人子弟の数が制限される。ユダヤ人の退役軍人の子弟や、片親が非ユダヤ人の子弟は、この制限を免れた。

1933年5月10日         ナチスが認可しない本はすべて禁止される。何万冊もの本が焚書となった。著者がユダヤ人という理由だけで、多くの子供向けの本も禁じられた。

1933年7月14日         遺伝病を持つ子供を排除する法律ができる。ドイツ人の医者は、障害者、ユダヤ人、ジプシー、アフリカ系の子供たちに、不妊手術を行った。

1933~35年              ドイツ人の学校において、「非アーリア人」は人種的に劣っていると教えられた。ユダヤ人の子弟は、「アーリア人」のスポーツクラブ、学校のオーケストラ、その他の課外活動に参加することを禁じられた。また、ドイツの都市や町の多くで、運動場、プール、公園に入ることを禁じられた。

1935年5月              「ユダヤ人立ち入り禁止」という貼り紙が、ドイツの町の入り口、店やレストランの入り口に貼られた。

1935年5月21日、31日   ドイツ軍の軍務にユダヤ人が就くことが禁じられる。

1935年9月15日         ニュルンベルク法が制定される。ドイツのユダヤ人は、市民権をはく奪され、わずかな権利だけが残された。

1936年10月15日        科学教育省が、「非アーリア人」が公立の学校で教えることを禁じ、ユダヤ人の教師による個別指導も禁じる。

1937年7月2日          ドイツの学校に通う多くのユダヤ人の学生に対し、さらなる制限が課される。

1938年5月11~13日     ドイツがオーストリアを併合。オーストリアを、ドイツ領「オストマルク地方」と呼び、占領する。

1938年5月13日        「オストマルク」にいる住所不定のジプシーを登録する法律を、ドイツ政府が可決する。1938年中に、14歳以上のジプシーの子供全員が、指紋登録をすることが義務付けられる。このことによって、ジプシーは刑法において「反社会的存在」として定義されていった。

1938年5月17日         国勢調査に、ユダヤ人とミシュリンゲ(ユダヤ人の血を一部引いている人々)を登録するための質問事項が入れられる。

1938年6月12~18日     ドイツとオーストリアのジプシーを逮捕する、最初の動きが始まる。逮捕の対象には14歳以上の子供も含まれていた。逮捕された人々は、ダッハウ、ブーヘンヴァルト、ザクセンハウゼン、マウトハウゼンに送られた。14歳以上の女性は、リヒテンブルク、そして後にその役割を受け継いだ、ラーフェンスブリュックの強制収容所へと送られた。

1938年7月11日         ユダヤ人がドイツの温泉に行くこと、ドイツの海岸で休暇を過ごすことが禁じられる。ドイツのユダヤ人はダンツィヒの海岸に行くことができなくなり、行けるのは近隣の小さな町にある飛び地のツォポットのみとなった。そこは、小型石油運搬船や商船が停泊しているような場所だった。

1938年7月23日         15歳以上のユダヤ人は、ユダヤ人と書かれた身分証明書をいつでも携帯しなければならないという法令が、発布される。1939年1月1日に施行。

1938年8月17日         ユダヤ人が、あらゆる公的な文書に、「イスラエル」「サラ」というミドル・ネームを入れなければならないという法律が作られる。1939年1月1日施行。こうして、ユダヤ人であるとすぐにわかるようになった。

1938年9月29~30日    ミュンヘン会談。ヨーロッパ列強諸国が、ドイツのチェコスロヴァキア併合を承認する。

1938年10月5日         スイス政府の要請により、ユダヤ人のパスポートには赤い『J』の文字がスタンプされることになる。

1938年11月9~11日     クリスタルナハト(「水晶の夜」の意味)。国家規模のポグロム(ユダヤ人に対する暴動)により、何百ものシナゴーグが焼かれ、多くのユダヤ人の家、学校、コミュニティの建物、またユダヤ人の店7500軒が破壊され、略奪された。その際、破壊された店の窓ガラスが散乱して、水晶のように光っていたので、「水晶の夜」と呼ばれる。多くのユダヤ人が暴力を受け、90名以上が殺された。ユダヤ人男性3万人が逮捕され、強制収容所に収監された。ユダヤ人女性も数千人が逮捕され、地域の監獄に送られた。その後、ドイツの産業に損失を与えたという口実で、ユダヤ人の共同体は罰金を支払わねばならなくなった。ユダヤ人産業の「アーリア化」が加速し、ユダヤ人は自分たちの店や会社を、非ユダヤ人に対し、安い料金で売り払うことを余儀なくされた。

1938年11月15日        ユダヤ人がドイツ人の公立学校に通うことが禁じられ、彼らはユダヤ人学校にしか通うことができなくなった。

1938年12月2~3日     ユダヤ人が公道に出てはならない日が設けられた。ユダヤ人は運転免許証を持てなくなり、車両登録もできなくなった。

1938年12月3日         ユダヤ人は自分たちの会社や不動産を売却し、有価証券や宝石を低価格で政府に売らなければならなくなった。

1938年12月8日        ユダヤ人は、教師であっても学生であっても、大学の授業に出ることができなくなった。

1939年4月30日         ドイツのユダヤ人は、借主としての法的保護をすべて失い、多くがアパートから追い出され、条件の悪い近隣地域の小さな家への引っ越しを強いられた。

1939年6月5日          16歳以上のジプシーが2000人、旧オーストリア領のブルゲンラントで逮捕され、ダッハウとブーヘンヴァルトの強制収容所へ送られた。15歳以上の女性1000人は、ラーフェンスブリュックの強制収容所へ送られた。

1939年9月1日          ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる。ドイツとオーストリアのユダヤ人は、夜間外出禁止となり、日中に買い物できる時間帯が制限された。

1939年9月23日         ユダヤ人はラジオ、カメラ、その他の電気機器を、警察に強制提出させられた。ユダヤ人の受け取った配給券は他のドイツ人よりも少なく、肉、牛乳などの配給券はもらえなかった。また、衣料品の配給券は、他のドイツ人よりも少なく、配給される服の種類も制限されていた。

1939年11月23日        ドイツは、ポーランド在住のユダヤ人に、胸に黄色いダビデの星を付けるか、腕章に青と白のダビデの星を付けることを強制した。

1940年4月~9月        ドイツがデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスに侵攻。

1940年5月1~7日      ポーランドのユダヤ人約16万4000人が、ウッチのゲットーに集められた。この場所は、外の世界との行き来を遮断するための場所だった。

1940年5月20日         ポーランドのアウシュヴィッツに、強制収容所ができる。

1940年7月29日         ドイツのユダヤ人が電話の所有を禁じられる。

1941年3月22日         科学教育省が、ジプシーとアフリカ系の子供たちにドイツの学校へ行くことを禁じる。理由は、「アーリア人の子供たちに対する危険性が目に見えて存在するため」。

1941年4月6日          ドイツ、イタリア、ブルガリアが、ユーゴスラヴィアとギリシアへ侵攻する。

1941年6月22日         ドイツがソヴィエト連邦へ侵攻。ドイツ軍には暗殺部隊が同行し、何百万もの共産主義者、ユダヤ人、ジプシーを殺害した。

1941年9月1日          ドイツにいる6歳以上のユダヤ人は、黒い文字で「Jude(ユダヤ人)」と書かれた黄色いダビデの星を、右の胸に付けることを義務付けられる。

1941年10月             アウシュヴィッツ強制収容所に、ビルケナウとして知られる施設の建設が始まる。ビルケナウには人を殺すための場所があり、1942年から開始された。

1941年10月14日        ドイツのユダヤ人がポーランドへ追放され、最初の一団はウッチのゲットーへ移送された。

1941年11月5~9日     5000人のジプシーが、オーストリアにある強制収容所からウッチのゲットーへ移送された。

1941年12月8日         最初の殺人施設(ヘウムノ)が稼働開始。アメリカ合衆国がドイツに宣戦布告。ガス室付きトラックで、毒ガスによる最初の殺戮がなされる。

1941年末~1942年1月   ウッチのゲットーにある「ジプシー収容所」に監禁されていた5000人のジプシーが、ヘウムノにある殺人施設に移送され、全員がガス室トラックで殺された。

1942年1月16日         ウッチのゲットーにいるユダヤ人が、ヘウムノの殺人施設に移送され始める。

1942年1月20日         ワンジー会議。ドイツの政府高官らが、ヨーロッパにいるユダヤ人をすべて殺すという「最終的解決」を実行する計画の詳細について議論する。

1942年2月~3月        ポーランド内の主要なゲットーのユダヤ人を、「避難させること」(実質は「移送すること」)が始まる。このことは、ドイツ領となったポーランドのユダヤ人を、計画的に追放し殺戮することの始まりを意味した。

1942年5月4~12日     およそ1万人のユダヤ人が、ドイツ、ルクセンブルク、ウィーン、プラハからウッチのゲットーに送られ、その6か月後、ヘウムノに追放される。汽車に乗る前に、すべての荷物が没収される。

1942年6月              ドイツにあるすべてのユダヤ人学校が、政府によって閉鎖される。

1942年夏                ナチ支配下にあるヨーロッパ中のユダヤ人が、ゲットー、強制収容所、ポーランドの殺人施設に強制移送される。

1942年9月5~12日     ウッチのゲットーに収容されていたユダヤ人およそ1万5000人が、ヘウムノに移送される。そのほとんどが10歳以下の子供と65歳以上の大人であったが、体が弱かったり病気だったりして働けない人々もまた含まれていた。9月16日までに、約5万5000人のユダヤ人が、ヘウムノにある殺人施設へ移送された。

1942年12月1日         非ユダヤ系ポーランド人の若者を入れるための特別な強制収容所が、ウッチにできる。

1943年3月1日          ドイツ国内のすべてのジプシー(数例の例外あり)が捕らえられ、アウシュヴィッツ・ビルケナウに移送される。

1943年3月7日          ナチ占領下の国のジプシーが、アウシュヴィッツ・ビルケナウに移送される。

1943年6月              ハインリヒ・ヒムラーが、ポーランドとソヴィエト連邦にあるすべてのゲットーを破壊するよう命令する。ウッチのゲットーだけは最後まで残り、1944年に破壊された。

1944年5月6日          ウッチ・ゲットー内で、釘や皮染めの作業をさせられていた若い労働者が、スープのストライキを起こす。彼らは、配給される水っぽいスープを受け取るのを拒否した。このハンガーストライキは広がり、数日間続いた。

1944年6月23日~7月14日  7196人のユダヤ人が、ウッチのゲットーからヘウムノへ移送され、そこで殺される。

1944年7月24日         ソヴィエト軍が、マイダネクの殺人施設にいた人々を解放。

1944年8月2~3日      アウシュヴィッツ・ビルケナウのジプシー家族の収容所が破壊され、そこにいた人々が殺される。

1944年8月7~30日     ウッチ・ゲットーに残っていたユダヤ人が、アウシュヴィッツ・ビルケナウに移送される。同じ時期、ソヴィエト軍はポーランド内で進軍を続けていた。

1944年10月             ナチスは、アウシュヴィッツの囚人の一部を、ドイツ西部の収容所や工場へ移送し、そこで強制労働させる。

1944年10月7日         ソンダーコマンド(死体の焼却をさせられていた囚人)が、アウシュヴィッツ・ビルケナウで反乱を起こす。ガス室と火葬炉を破壊することに成功。

1945年1月17日         ソヴィエト軍があと10日の距離まで迫ってきたことで、収容所に残っていた囚人の一部は、アウシュヴィッツから移動させられた。ドイツの強制収容所における「死の行進」が始まる。

1945年1月27日         ソヴィエト軍が、アウシュヴィッツ・ビルケナウの強制収容所を解放する。

1945年4月11~12日     アメリカ軍がブーヘンヴァルトの収容所を解放。解放された人々の中には、以前アウシュヴィッツに収容されていた囚人たちもいた。

1945年5月8日  戦争終結、ナチス支配の終焉(しゅうえん)。