ステーション19 現代のイスラエル(上)

ステーション19 現代のイスラエル(上)

歴史的背景(前半)

詩篇137篇で、詩人は悲しげに叫びます。

「エルサレムよ もしも 私があなたを忘れてしまうなら この右手もその巧みさを忘れるがよい。もしも 私があなたを思い出さず エルサレムを至上の喜びとしないなら 私の舌は上あごについてしまえばよい」(詩篇137:5~6)。

詩篇137篇は、紀元前6世紀、バビロンに捕囚されたユダヤの民が、祖国を恋い慕う歌です。それは、以後、数千年にわたる全ユダヤ人の叫びでもあります。彼らは世界のどこにいても、神が先祖アブラハムに約束された土地に恋い焦がれてきたのです。

紀元70年、ローマ帝国によってエルサレム神殿が破壊されると、ユダヤ人が祖国で生活するのは非常に困難になりましたが、ユダヤ人の姿がイスラエルの地から消えたことはありませんでした。その地は、次々に別の民族に支配されることになりました。しかし、イスラエルを故国だと主張する民族は一つもなく、どの民族もその土地を愛することはなく、ユダヤ人住民を正しく扱うことはありませんでした。ただ、ユダヤ人だけがエルサレムを慕い、イスラエルの地を愛し、そこで生涯を閉じたいと強く願ったのです。

1800年代に始まったシオニズム運動は、創世記12章1節の「わたしが示す地へ行きなさい」という命令に基づいて名づけられ、組織化されました。多くのユダヤ人学者は、シオニズムの父と呼ばれるテオドール・ヘルツルを、モーセに例えます。神の民を離散から救い、故郷へと連れ戻したからです。有能なジャーナリストだったヘルツルは、1894年のアルフレド・ドレフュスの裁判を追っていました。ユダヤ人ドレフュスはフランス陸軍の大尉で、ドイツ政府にスパイ行為で訴えられていましたが、それは冤罪(えんざい)でした。無実を証明する証拠が十分にあったにもかかわらず、ドレフュスは、フランスで長い間続いていた反ユダヤ主義の犠牲となったのです。

ヘルツルは、ドレフュスが公開の場で侮辱され、フランス人の大衆が「ユダヤ人に死を」と叫ぶ中、デビル島へ送られるのを、間近で見ていました。そして、ユダヤ人が非ユダヤ人社会に生きている限り、反ユダヤ主義の犠牲になり続けることを悟ったのです。それから10年も経たないうちに、シオニスト運動の基盤を作り、ユダヤ人、非ユダヤ人合わせて数百万の人々に影響を与え、ユダヤ人を故郷エルサレムへと帰還させました。

1917年イギリスは、当時パレスチナと呼ばれていたイスラエルの地を、トルコから手に入れようとしていました。その国際的支持を得るため、当時の英外相アーサー・バルフォア卿は、イギリスがパレスチナをユダヤ人の民族郷土とするという内容の「バルフォア宣言」を書き上げました。バルフォアはユダヤ人に友好的で、熱心なシオニストであり、この宣言は、イスラエル国家の建設を強く後押しすることになりました。実は、1939年のイギリスの「中東白書」によれば、政治指導者の大部分は、ユダヤ人の民族郷土をイスラエルに作るという意図はなく、バルフォア宣言がシオニズム運動を前進させてしまったことを遺憾としていました。それでも、この宣言はアメリカ合衆国の支持を受けました。そして、パレスチナはイギリスが委任統治することになったのです。

「中東白書」は、イギリスがシオニズム運動を支援することを拒絶しただけではなく、パレスチナへの移民を5年間で7万5千人に制限し、追加で移民したい場合はアラブ諸国の合意を得なければならない、という声明を発しました。ヒトラーがユダヤ人絶滅を計り、ナチスが死の収容所で恐ろしいことを行っていたにもかかわらず、イギリス政府はユダヤ人が迫害から逃れ安全な地に入ることを許さなかったのです。1939年、ベングリオンは、ユダヤ人聴衆に向けての演説で、「我々は、中東白書など存在しないかのようにヒトラーと戦い、ヒトラーなど存在しないかのように中東白書と戦うつもりだ」と述べました。

1945年、第二次世界大戦終結までに、ヨーロッパのユダヤ人の3分の2に当たる600万人のユダヤ人が殺されました。残されたユダヤ人には、食べ物も、お金も、住む場所もありませんでした。多くのユダヤ人がイスラエルに憧れ、故郷と呼べる唯一の場所はイスラエルしかないと固く信じました。しかし、イギリスは厳しい移民法を適用し、生き残った人々の移住を禁じます。いくつかのユダヤ人組織が、投獄や死刑の危険を冒して、「不法移民」と呼ばれた数千の同胞をイスラエルに密入国させました。避難民を乗せた船のうち何隻かは目的地にたどり着きましたが、多くが捕らえられ入国を拒否されました。悲惨なことになったのはエクソダス号です。ホロコースト生存者4500名がぎゅうぎゅう詰めで乗っていましたが、イギリスの戦艦は敵船であるかのように取り囲み、その船を沖へと追いやりました。結局、4500名全員がヨーロッパに送還され、こん棒を構えたイギリス軍兵士に船から引きずり降ろされ、埋葬キャンプへと送られました。しかし、皮肉なことに、イギリス政府の行った非道な行為が、国際社会をユダヤ人に有利な方向へと動かしました。レポーターがエクソダス号事件を写真とともに世界中の家庭に伝えたため、ユダヤ人に対する同情が高まり支援が集まったのです。

1947年11月、国連がイスラエル国家の建国に関して決議しました。それは、ユダヤ人とアラブの両方に土地を与えるという内容でしたが、ユダヤ人の土地は、防衛が困難なほどの狭い土地、アラブの土地は、今日彼らが主張しているのと同じ領域でした。この分割統治法案がユダヤ人とアラブの指導者に示されたとき、ユダヤ人は「何もないよりは良い」と考えて受諾しましたが、アラブ指導者らはそれを拒否しました。ユダヤ人にはわずかな土地も分け与えない、「ユダヤ人は海へ追い落とす」と脅したのです。

1948年、イギリス軍がイスラエルから撤退した5月14日、イスラエルは独立を宣言します。イスラエル本国を始め世界中のユダヤ人が歓喜する中、ベングリオンがラジオで独立宣言を読み上げました。ベングリオンは、聖書に基づいて、イスラエルの地に対する権利を確認しました。新しいイスラエル国家は、古代の預言者たちが語った自由、正義、そして平和を基盤として建てられること、非ユダヤ人の人々の存在を認め、その聖地に敬意を払い、自由と保護を約束しました。最も重要なのは、イスラエル国家が世界中に離散しているユダヤ人に帰還の門を開くという約束です。この新国家を最初に承認したのは、トルーマン大統領のアメリカ合衆国でした。

独立宣言が出されるや否や、エジプト、シリア、レバノン、ヨルダン、イラク、サウジアラビアの連合軍が、一斉にイスラエルに対する攻撃を開始し、独立戦争が始まりました。アラブ軍の規模はイスラエルより大きく、武器の性能もイスラエルを凌駕(りょうが)しており、生まれたばかりの国家にはとても立ち向かえる相手ではありませんでした。しかも、世界中でイスラエルへの武器供給がボイコットされるという事態も発生しました。アラブの指導者が「これはユダヤ人絶滅のための戦争だ」と宣言する一方、イスラエルはただ、「我々には勝つという以外の選択肢はない」と述べるにとどまりました。

しかし、ボイコット運動にもかかわらず、ソ連のスターリンがチェコスロヴァキアを通してユダヤ人に武器・軍需物資を売ることに同意し、アメリカを始め世界中のユダヤ人が組織的に、法を破ってまでイスラエルに武器を輸送しました。

イスラエルのリーダーはアラブ諸国に対し、繰り返し停戦を求めましたが、ユダヤ人絶滅を目指すアラブ側はそれを拒否します。停戦合意が実現したのは、アラブ側の敗北が鮮明になり、イスラエルが国境を拡張してからでした。アラブ諸国のほうから、停戦条件を申し出たのです。1949年1月、国連による停戦調停により、つかの間の平和がもたらされました。しかし、エルサレムの街は分割され、新市街がユダヤ側に、ユダヤ教のすべての聖地がある旧市街は、アラブ側のものとなりました。停戦合意の特別条項は、ユダヤ人が聖地に自由に出入りする権利を保証していましたが、実際にそれが守られることはありませんでした。また、南部のネゲブと北部のガリラヤは、イスラエルの領土にはなりませんでした。最大の損失は、イスラエル兵6000の戦死です。

独立宣言は、イスラエル国外のユダヤ人にも影響を与えました。当時アラブ諸国には60万人以上のユダヤ人が住んでおり、中には何世代にもわたってそこに暮らしている人々もいました。しかしイスラエルの独立が宣言されると、彼らはアラブ諸国から非常に激しい迫害を受け、大部分は財産も持ち物も没収されて国外追放となりました。

一方、アラブの指導者らが新国家イスラエルを攻撃したことで、アラブ側も、ほぼ同数の難民を出すことになりました。アラブ人難民(いわゆるパレスチナ難民)の問題は、アラブ諸国がイスラエルに攻撃を仕掛けた結果であり、アラブの指導者らに解決する気があれば、難民をイスラエル周辺の広大なアラブ諸国に移住させることができたのです。しかし、アラブ諸国は、難民を吸収するための国際基金設立には合意したものの、難民の受け入れは拒否しました。アラブの指導者らは、難民問題を意図的に未解決の問題にすることで、イスラエルを国際的に非難する材料として使おうとしました。こうして独立したばかりの脆弱(ぜいじゃく)なイスラエル国は、アラブ諸国から追放されたユダヤ人難民60万を国内に受け入れなければならないだけでなく、国内に残されたアラブ人難民にも対処させられることになったのです。