ステーション19 現代のイスラエル(中)

ステーション19 現代のイスラエル(中)

歴史的背景(後半)

イスラエルは独立戦争(第一次中東戦争)に勝利した後、国家建設の困難な仕事に着手しました。立法府としては、選挙で選ばれた120名の議員から成る一院制の議会クネセトができました。司法機関は、世俗の裁判所とラビの裁判所の2つになりました。世俗の裁判所は、全市民の人権尊重を宣言した基本法をもとに裁判を行い、ラビ管轄の裁判所は、結婚、離婚、相続などの個人的な問題に関する民事裁判を取り扱いました。国内には諸政党が立ち、社会組織、教育システム、移民を吸収し支援する政策が整えられ、経済機構ができあがり、国としてのアイデンティティが確立されました。その核には、預言者から伝統として受け継いできた贖いと自由のメッセージを全人類に伝えねばならないという、イスラエル民族の意識がありました。

しかし、この間、新国家イスラエルに対するアラブ諸国の憎悪と敵意は、ますます高まっていきました。イスラエルの国境には、ヨルダンやエジプトの軍が絶えず侵入し、市民が身の危険にさらされる状況が続きました。港は封鎖され、船が不当に拿捕(だほ)されました。イスラエル政府は、西欧諸国や国連の支援を得ようと努力しましたが、成果なく終わります。アラブの指導者たちは公然と手を組んで、イスラエルの消滅を目指していました。

1956年2月、エジプト軍の師団長が将校らに向け、このように檄を飛ばしました。「全将校は、イスラエルの破壊・絶滅という崇高な目的を思い起こし、イスラエルとの不可避なる戦いの準備をせよ。可能な限り短期間で、これ以上なく凶暴かつ残虐な戦闘によって、彼らを滅ぼし尽くすのだ」。

同年、国連総会に出席したイスラエル代表は発言の最後に、自国の苦境を次のように説明しました。「我々はすべての国境を敵の軍隊に囲まれ、凶暴な敵意に絶えず怯え、侵攻と襲撃との暴力の危険に昼夜を問わずさらされ、市民にも犠牲者を出し、隣国の軍隊からは絶滅させてやると脅され、いつまた攻撃されるか分からないという不安の中に置かれ、実際に襲撃され、土地を封鎖され、包囲されている。世界の中で、夕が来ても朝が来ても自国防衛のために戦わざるを得ない緊張状態を強いられているのは、イスラエルだけだ」。

1956年10月29日月曜日、スエズ運河の利権をめぐってイギリス・フランスと利害が一致したイスラエルは、シナイ半島からエジプト軍を一掃するため、ガザ地区とシナイ半島に侵攻し、11月5日、作戦を完了しました(第二次中東戦争・スエズ戦争)。イスラエルは180名の兵士を失いましたが、エジプト人捕虜を6000人連れ帰り、大量の武器や装備を手に入れました。さらに、ガザ地区だけでなく、シナイ半島からスエズ運河までを支配領域としました。しかしながら、平和を優先して自発的にシナイ半島をエジプトに返還したのです。そして、エジプトとイスラエルの緩衝地帯を作るために、国連軍がガザ地区に駐留しました。その結果、イスラエルの南や東の国境を悩ませていたテロリストたちは、拠点をシリアやレバノンに移動させました。

1956年から1967年にかけて、シリアやレバノンから北部国境に向けての攻撃が、頻繁に繰り返されるようになりました。シリアからは計画的な砲撃が続き、レバノンからはテロリストがキブツなど共同体を標的にして多大な損害を与えていました。1967年、エジプトは、イスラエル南部のエイラート港を封鎖し、1957年からシナイ半島に駐留している平和維持軍を撤退させるよう国連に迫りました。さらにエジプトは、シリア、ヨルダン、イラクと連合し、イスラエルへの再攻撃を目論(もくろ)んでいました。

イスラエルは、アラブ諸国の攻撃準備が整ったことを確認すると、1967年6月5日、先制攻撃をしました。わずか6日間で、イスラエルはエジプトの空軍を破り、シナイ半島のエジプト軍、北のシリア軍、東のヨルダン軍を撃退しました。今や、ヨルダン川西岸、シナイ半島、ガザ地区、ゴラン高原がイスラエルの支配下に入りました。しかし、イスラエル人と世界のユダヤ人にとって最も重要なのは、エルサレムの旧市街を手に入れたことです。このとき、建国以来初めて、イスラエル市民はエルサレムの旧市街に入り、ユダヤ教で最も聖なる地、西の壁で、祈りを捧げたのです。

1973年、再びイスラエル周辺のアラブ諸国の間に、戦争への圧力が高まっていました。ユダヤ教の最も聖なる日であるヨム・キプール(大贖罪日)を狙って、エジプトとシリアが同時にイスラエルに攻撃を仕掛け多大な損害を与えました。その日は祝日であるため、兵士の多くが帰省しており、イスラエルはすぐに反撃することができなかったのです。それでも、素早く軍隊を整え、侵攻してきた両国軍を国境にまで押し戻しました。勝利に終わったものの、ヨム・キプールに攻撃を受けたことは大きな衝撃でした。戦費も国家の年間GNPと同じくらいかかりました。また、この戦争を契機にイスラエルは、国際社会においてさらに孤立していきました。イスラエル兵2700の命も失われました。その数は6日間戦争の戦死者のおよそ4倍です。この戦争は、イスラエル市民を動揺させることになりました。

しかし、ヨム・キプール戦争は、幸いな結果も残しました。それは、エジプトの指導者たちが、イスラエルに対する軍事的勝利は不可能だと悟ったことです。1977年、エジプトの大統領アンワル・サダトはイスラエルを訪問し、平和を築くための一歩を初めて踏み出しました。1979年、サダトとイスラエル首相メナヘム・ベギンは、アメリカ大統領ジミー・カーターに招かれてアメリカのキャンプ・デーヴィッドで会談し、平和条約に調印しました。しかし、その4年後、サダトはイスラム急進グループにより暗殺されます。

サダトの後継者ホスニー・ムバラクは、在任中、イスラエルに対して穏健な立場を取り続けました。1982年、イスラエルはシナイ半島を一部を除きエジプトに返還し、1989年には全域を返還しました。エジプトの報道機関は、たいてい反ユダヤ、反イスラエルの立場で発言するのですが、両国は温かいとまでは言えないまでも、平和な関係を続けています。また、ヨルダン王フセインと友好的関係を結ぶことができ、両国の国境にも平穏と繁栄がもたらされました。フセインの後を継いだ息子のアブドゥラも、平和で友好的な関係を保っています。

しかし、北側国境の状況は悪化し続けました。南レバノンのPLO(パレスチナ解放機構)が継続的にイスラエルの共同体を砲撃し、頻繁に死者が出て、深刻な状況にありました。1982年、イスラエル政府は、そのテロリスト集団を攻撃します。攻撃地域を国境から40kmまでの範囲に限定しましたが、戦争はエスカレートし、結局、イスラエル軍はレバノンの首都ベイルートを占領することになりました。

ところが、テロリストは狡猾に民間人の間に避難します。それを狙えば、罪のない市民を攻撃しているように見えます。その映像が世界に流れ、イスラエルは世界から非難されることとなりました。逆に、PLOはレバノンについて、徐々に国際的支援を獲得していきました。イスラエルは国境の緩衝地帯として小さな土地を残し、撤退せざるを得なくなりました。こうしてすべてのことが終わったとき、イスラエルは多大な努力にもかかわらず、兵士600名以上の犠牲を出し、国際社会の信用を失っていきました。

1987年、ヨルダン川西岸とガザ地区に住むアラブ人が一斉蜂起を開始しました。この一連の暴動は「第一次インティファーダ」と呼ばれます。インティファーダの背後には、ハマスやヒズボラなどのイスラム・テロ組織が暗躍し、アラブの難民を扇動したのです。その結果、イスラエルとアラブ人双方に、何百人もの死者を出しました。

1993年のオスロ合意により、平和に向けた動きが始まりましたが、成功と行き詰まりの間を行き来しました。イスラエルは、オスロ合意とそれに続く交渉で出された条件に従い、ガザ地区とヨルダン川西岸地区を、パレスチナ側に渡しました。しかし、ヤセル・アラファト率いるパレスチナ解放機構(PLO)は、あらゆる面でこの合意を破りました。それでもイスラエルは南レバノンとゴラン高原からの撤退に同意したのです。

平和を強く望むイスラエルが進んで土地を手放したことで、和平交渉は進展しましたが、イスラエルの領土は、1947年の国連による分割案で得た分よりも徐々に小さくなっていきました。そして現在は、オスロ合意は事実上頓挫しています。

イスラエル国家の今後のことは、誰にもわかりません。隣国と平和を構築し、神がその祖先に与えた土地に安全に住まうことになるのでしょうか。あるいは、聖書の予告している通りの大崩壊が待ち構えているのでしょうか。最終的にどうであれ、現在、イスラエルが存在していること自体が奇跡であり、神が契約に忠実であることを証明しています。クリスチャンが結集してイスラエルを助け、イスラエルの城壁を守り、イスラエルの平和を祈ることが、今日ほど喫緊である時代はないのです。