ステーション24 書記と学者(前半)
- 2021.01.20
- アブラハムの子供たち
教えるための情報
パート1 書記について
書記という意味のヘブル語、ソーフェールは、数えるという意味の語根を持ちます。古代の書記はほとんど、食べ物の割り当てや税の取り立てに関係する仕事に従事しており、それらの仕事に共通することは、数えることでした。古代の会計士たちはその技術を、寄宿舎の家庭のような環境で学びました。師が弟子を集め、教師であると同時に親のような役割をする学校です。こうした学校に関する一番古い記録の一つに、カナン地方の筆記の師が弟子の親に宛てた手紙があります。手紙の中で師は、なぜ授業料がきちんと払われていないのかと問い、親のように弟子を心配していることを伝え、現金がなければ穀物や油で授業料を払ってもよいですよと綴っています。
ヘブル語聖書は、様々な立場の書記について記しています。第一・第二サムエル記、第一・第二列王記、エレミヤ書では書記に触れている箇所が多数あり、ダビデやソロモンの宮廷で重要な役割を果たしていたことが記されています。君主政治の時代、書記は王国の重要な役割を担うようになっていきました。王国が版図を広げ、市民が増えると、記録と伝達が必須になってきたからです。ソロモンによる建設事業や都市開発計画は、訓練を受けた会計士と記録者の助けなしにはありえませんでした。
書記の仕事は世代から世代へと受け継がれたので、君主政治の時代には書記の家系ができ、王宮で強い影響力を持つようになりました。書記が就ける最高の地位は王の専属書記でした。王の個人的な助言者となり、王家や国家の経済的なこと全般にわたる支配権が与えられることもありました。王国は、能力レベルが多様な書記を雇いました。政府の要人たちも自分の書記が必要だったからです。都市や地方の政治機関も、税を徴収したり軍需品の記録を取ったりするために、書記を雇いました。
多数の書記を必要としたのは神殿でした。法的文書や一般文書のためだけでなく、聖書を筆写するためにも、多くの書記が雇用されました。裕福な人々もプライベートな秘書として書記を雇いました。また、自ら雇用主として生計を立てる独立した書記もいました。一般市民も、法的な契約を結んだり宗教的文書を書いたりするときは、書記を必要としたからです。個人的な文書を送る際、書記を雇って代書してもらうこともありました。
ユダヤ教にラビが登場した時代、書記の職業に新たな重要性が加わりました。書記になるには、あらゆる意味でヘブライ的で、献身した、敬虔で忠実な人物であることが証明されなければなりませんでした。訓練を受けたソーフェール(書記)だけが、トーラーの筆写をしたり、テフィリンやメズザーの文を書いたり、結婚の契約や離婚の証書を書いたりすることができました。これらの文書すべては、厳格なルールに則って書かれなければならず、使える紙、ペン、インクが決まっており、文字の書き方まで決まっていました。特に、聖書を筆写する過程は聖なる仕事とされていました。神への敬虔と献身の思いで、筆写のどの段階においても祈り、祝福し、沐浴で身を清めて行ったのです。聖書を世代から世代へと受け渡していくことは、敬虔な書記だけに許された聖なる仕事でした。ユダヤ教にとって書記は不可欠であり、書記のいない村には学者は住めない、とタルムードに書かれているほどです。しかし、書記が豊かになりすぎて仕事を辞めてしまわないようにと、逆に高い給料は払われませんでした。
現代の書記も、イエスの時代と同じことが要求されます。神に従う敬虔な人物でなければならず、自分の記憶に頼ることなく慎重に聖書を筆写し、この聖なる仕事に人生を喜んで捧げる人でなくてはなりません。
ティックン・ソフェリームと呼ばれる模範のトーラーから一つ一つの文字を筆写し、チェックにチェックを重ね、さらにチェックしなければなりません。すべての文字を声に出して読み上げる書記もいれば、集中を切らせないために文字を歌にして歌う書記もいます。こうして何世紀にもわたり、世代から世代へと、一字たがわず、聖書の全部を筆写してきたのです。20世紀に、数千年前に書かれた聖書写本が発見されましたが、それは、今日私たちが手にする聖書と同じであることが判明しました。ユダヤ人書記が、神と御言葉にこれほど身を捧げてくれたことに、私たちクリスチャンは心から感謝するべきだと思います。
パート2 学者
1858年、ユダヤ人の歴史でも重要な人物のひとり、エリエゼル・イツァーク・ペレルマンがリトアニアで生まれました。後にエリエゼル・ベン・イェフダーとして知られ、「現代ヘブル語の父」と言われる人です。5歳のとき、敬虔なハシディズムのユダヤ教徒であった父を亡くし、13歳で、母方の叔父の後見でユダヤ教の神学校イェシヴァへ送られました。神学を学ぶはずでしたが、そこで知り合った人々を通して世俗の学問に触れ、やがてイェシヴァを去って、1877年、一般の教育を修了しました。
エリエゼルは多くの分野に才能を持つ若者でしたが、最も情熱を注いだのは、イスラエルの地とヘブル語でした。紀元70年に神殿が破壊されて以来、ユダヤ人は世界中に離散していました。彼らは定住した国は異なっても、唯一神への信仰とトーラーによって互いにつながってはいましたが、ヘブル語は宗教的儀式以外の目的では使われなくなっていきました。エリエゼルは、ユダヤ人は歴史的にイスラエルの地とヘブル語から切り離されないと確信し、聖書の言語を回復する活動を始めました。
エリエゼルは霊的シオニズムを掲げ、多くの論文を書きました。霊的シオニズムとは、イスラエルの地に住んでいるかどうかにかかわらず、イスラエルが全ユダヤ人にとって結節点となるべきだという主張です。イスラエルは、アリヤー(帰還)を選んだ人々だけでなく、世界中のユダヤ人にとって中心地となるべきだ、と論じたのです。そして旅をし、研究を続ける中で、ヘブル語が回復し、話され、子供たちに教えられない限り、ユダヤ人が再び民族としてまとまる日は来ない、と確信することになりました。
1881年、エリエゼルは、ポーランド・リトアニア在住のデボラ・ヨナスと結婚すると、イスラエルの地へと旅立ち、同年10月にヤファに到着しました。イスラエルでの新生活が始まるや、エリエゼルは花嫁に、これからはヘブル語しか話してはならないという衝撃的な宣告をしました。一切母語を使わない生活は、デボラにとって困難を極めたでしょう。なにしろ当時のヘブル語の単語数は8000ほどしかなかったからです。それでも彼らは現代ヘブル語を話す最初の家族となり、彼らの息子は現代ヘブル語を話す最初の子供となったのです。
デボラは1891年に亡くなり、6か月後、エリエゼルは彼女の妹ヘムダと結婚しました。二人はともに、残りの人生をヘブル語の回復と普及に費やしました。エリエゼルは著作を重ね、ヘブル語を教えられるのならどこへでも行きました。また、現代ヘブル語による最初の雑誌や定期刊行物を発行し、聖地の地理についても詳しく書き記しました。そして、「ヴァアド・ハラション」と呼ばれる学会を作り、新しい単語やフレーズを作り続ける場を作りしました。これにより、ヘブル語は8万語を超える語彙(ごい)を備えた生き生きとした言語になったのです。彼はイスラエルの地を情熱的に愛し、イギリスの権威者たちを説得してヘブル語をイスラエルの公用語のひとつにしたほどでしたが、宗教的には急進的な立場を取っていたために、正統派ユダヤ教の共同体とよく論争が生じました。
エリエゼルの偉業の一つは、古典・現代ヘブル語辞典の作成です。この大作は1巻ずつ作られ、エリエゼルの生前に完成されることはありませんでしたが、妻と息子が継承し、1959年に完成させました。彼は宗教的には正統派の立場を取っていたわけではありません。それでも、神に用いられた人物と言えます。1948年、国連がユダヤ人の故郷としてイスラエルを承認したとき、ヘブル語の準備は整っていました。ヘブル語は、生まれたばかりの国をまとめ、1900年も離散していた人々を一つにしたのです。エリエゼル・ベン・イェフダーの不屈の献身により、ヘブル語は歴史上唯一の「死語からよみがえった言語」となりました。
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