創造主が万物の基準 vs 人間が万物の基準① はじめに
- 2021.03.16
- 神基準 vs 人基準
何を万物の基準にするか。それによって、世界や歴史に対する考え方、人間についての理解はまったく異なってきます。
聖書は、「創造主が万物の基準である」とします。この土台の上で世界や歴史を綴ります。同時に、聖書は「人間が万物の基準である」という対立する視点についても語っています。この二つは、ものの考え方を二分すると言えます。「創造主が万物の基準である」はヘブライズムの根幹であり、「人間が万物の基準である」はヘレニズム思想の特徴です。
「人間が万物の基準である」とは、人間の理性と感性(五感)だけを信頼することです。人間に備わった理性が、視・聴・嗅・触・味覚という五つの感覚によって体験したことを材料にして、世界や人間を理解し、意味や価値や目的を作り上げ、善悪の基準も定めていくのです。
しかし、人間の五感の対象は時間と空間の中に限られており、また、物事のありのまま感受できるわけでもなく、錯覚も起こします。理性も完全ではなく、偏向や錯誤から自由ではありません。そして、人ごとに理性と感覚の能力や傾向(好み)も異なります。民族によっても時代によっても違います。つまり、「人間が万物の基準である」とするなら、民族や時代によって人間観、価値観、世界観は異なり、移り変わるということです。21世紀は、いうまでもなく、「人間が万物の基準である」とする時代です。
一方、聖書の「創造主が万物の基準である」という立場は、創造主の「言葉」(教え)を基準として世界や人間を理解しようとします。理性と五感も大事にしますが、それよりも霊性を第一にして、創造主が定められた物事の意味や価値や目的を知り、善悪を判断するのです。霊性とは、創造主といのちでつながっていることです。つながっているので創造主から受けられる諭しや気付きです。理性と五感とはまた別の領域で力を発揮します。聖書を神の言葉と信じる人は、当然、この立場で生きようとします。
さて、この書では、両者の違いを説明しながら、「人間が万物の基準である」という考え方がどのように始まり、人間社会に浸透していったのか、そのためにどのような混乱をもたらしているか、をお話しします。そして今日、キリスト教会においても、実は「人間が万物の基準である」という考え方が多数派になっていることを指摘したいと思います。その中で深刻なのは、創造主の意図や性質を基準として聖書の教えを理解するのではなく、人間の経験や感覚や理屈に合うように聖書を解釈し直すという傾向です。いわば、人間中心主義のキリスト教です。人間信頼のキリスト教、あるいは、山本七平が語った「人間教キリスト派」なのかもしれません。
私は、「人間が万物の基準である」としている限り、人類に希望はないと思います。キリスト教会もその役割を果たせないと憂えます。
聖書にのみ希望と救いがあります。その聖書を信じるとは、「創造主が万物の基準である」という生き方をすることです。
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