創造主が万物の基準 vs 人間が万物の基準③

創造主が万物の基準 vs 人間が万物の基準③

I 創造主が万物の基準である(その2)

神の民イスラエル民族(ユダヤ人)は、「創造主が万物の基準である」という教えを、今日まで継承してきました。『ヘブライ聖書』(旧約聖書)は、創造主とイスラエルとの間で結ばれた「契約の書」であり、創造主を万物の基準として記されたものです。そして、ユダヤ人から生み出されたキリストの教会も、これと同じ教えを受け継ぎました。キリストの教会が記録した『新約聖書』も、『ヘブライ聖書』と同じく、創造主(キリスト)を万物の基準とする「契約の書」です。この意味でも、『ヘブライ聖書』と『新約聖書』は一貫しており、一つの聖書です。

しかし、ユダヤ人やキリスト教会(クリスチャン)が、いつも創造主を基準として聖書を解釈し、福音を語ってきたわけではありません。むしろ両者とも、これに反する基準を立てて、創造主の基準を無視し、逸脱してしまうことの方が多かったとさえ言えます。

残念ながら、現代においては「創造主が万物の基準」という原理は衰退し、その教えを守っているクリスチャンは少数派になりつつあります。一般社会はおろか、キリスト教会においてさえもそうなのです。

今や、自由主義世界を席巻しているのは、「人間が万物の基準」という原理です。この原理は、創造主を基準とすることを真っ向から拒絶します。この原理が、イスラエルの社会やキリスト教会の中に入り込んだのは、そんなに近現代のことではありません。もう初期のころから浸透していました。

では次に、「人間が万物の基準である」という原理の起源と、その歴史を見ていきます。