創造主が万物の基準 vs 人間が万物の基準④

創造主が万物の基準 vs 人間が万物の基準④

Ⅱ 人間が万物の基準である(1)

聖書は、創造主を万物の基準とする書ですが、同時に、人間を万物の基準とする原理についても語る書です。その起源、歴史、意味、結末を明らかにしています。むしろ、この二つの原理がぶつかり合う歴史を綴っていると言えます。

では、まず聖書に沿って、その起源と歴史を見ていきます。ここからは、聖書に従い、創造主を「神」という言葉でも呼ぶことにします。

1.人間を万物の基準とする原理の起源

聖書の最初の書『創世記』は、神が人間を、神に似せて「神のかたち」に創造され、「地を支配する」という役割を授けられたことを記録しています(創世記1:26)。神の代理者として、神の愛に倣い、神の聖と義を基準として、世界を統治することが務めだったのです。人間は「神のかたち」だからといって、「自分を基準にして地や生き物を支配していい」ということではありませんでした。

1)人間が神のようになる

ところが、人間は「創造主が万物の基準である」世界を拒絶し、人間自身が万物の基準であるという世界を開いてしまいました。

最初の人間(アダム)が、創造主なる神に反逆したのです。「蛇」に、「善悪を知る木の実」を食べるなら「あなたの目は開かれ、神のようになり、善悪を知るものとなる」と唆されて、それをとって食べてしまいました。それは、自らが「神」となる道を選択しことを意味します(創世記3:5、6)。

これ以降、人間は創造主を排除し、自分の感性や理性や体験や願望を基準にして、物事を判断するようになります。「人間が万物の基準である」という歴史の始まりです。人間はあらゆる領域で、神に取って代わろうとします。

「人間が万物の基準である」とは、次のようなことを意味します。

①人間が、すべての物事の目的、意味、価値を定めます。人間の存在目的や価値も、生きる意味も、人種・民族・個人の優劣も人間自身が決めます。

②人間が歴史を動かそうとします。世界の歴史は、人間の欲望と力を軸にして展開していきます(しかし、未来のことは左右できません)。

③人間が善悪の基準を定めます。

④人間が自然界を自由に利用し、作り変えます。強者が弱者をどう扱うか、すべて強者の勝手です。

⑤人間(強者)が自分の基準で他者を評価し裁きます。

この「人間が万物の基準である」という原理は、「蛇(サタン)」が人類に持ち込んだ「信仰」であることを記憶にとどめるべきです。

*神は存在しない、サタンは架空の存在である、『創世記』は神話である、といった主張は、すでに「人間が万物の基準である」ことを前提にして、議論を始めていることになる。