創造主が万物の基準 vs 人間が万物の基準⑦
- 2021.04.06
- 神基準 vs 人基準
Ⅱ 人間が万物の基準である(4)
③『士師記』の時代・・・多元主義、相対主義
それに対し、創造主は、アブラハムというひとりの人物を選んで契約を結び、その子孫イスラエルを「神の民」とし、彼らを通して、「神が万物の基準である」ことを回復しようとされました。イスラエルに、神の聖さと善悪の基準であるトーラー(律法)を与え、彼らによって世界に神の基準を示そうとされたのです。
しかし、そんな神の選びの民であっても、人間を万物の基準とする世界のただ中で、神を基準として生きることは至難でした。常に、人間を基準とする異教の神々や自然崇拝の文化、政治、偶像礼拝の魅力にさらされ、その誘惑の虜になりました。ついには創造主なる神から離れ、バベルの時と同じように混乱を引き起こしました。その傾向が特に顕著になったのが「士師たちの時代」です。その時代のことを、聖書はこう記録しています。
「その頃、イスラエルには王がいなかった。そして、おのおのが自分の目に正しいと思うことを行っていた」(士師記17:6、21:25)。
本来、イスラエルの王は、創造主ご自身でした。しかし、士師たちの時代、イスラエルは自分たちの王なる神を見失い、おのおのが自分の視点で物事を見、自分の基準で判断して行動するようになっていました。イスラエル12部族は全体的な統一を失い、国は弱体化し、周辺の諸民族から政治的、軍事的、文化的、宗教的侵略を受け続けました。イスラエルの歴史の中でも、最も混迷を極めた時代でした。いわば、主観主義、相対主義、多様性重視の社会です。
この「おのおのが自分の目に正しいと思うことを行う」という思想・文化は、今日の「人間を万物の基準とする」という社会にも引き継がれています。それは、20世紀後半の欧米文化圏に花開きました。人々はこう嘯(ウソブ)きました。「自分が正しいと感じるならそれを実践せよ。気持ちがいいと感じるならそれを行え。自分が真実と感じることが真実である。それを行えることが人間の自由である」「あなたはあなた、私は私。互いのすることを認め合い、干渉してはならない」と。しかし、この文化は、花は開けど良い実は結びませんでした。神を基準とする倫理や人間観を破壊し、結婚・家族を解体し、社会の格差を広げ、人種差別を深めていくことになりました。
今世紀もまだ、その潮流の中にいます。主観主義、相対主義、多元主義、個人主義、自由主義(新自由主義)は、ますます強まっているようにみえます。こうした「人間が万物の基準である」という思想・文化が頂点に達するとき、地球と人類は滅びの危機に直面することになるのかもしれません。地球温暖化など、タイムリミットを直前にしている問題でも、世界が足並みをそろえることができないからです。
このように、「士師たちの時代」は、20世紀後半から今世紀にかけての世界の「雛型」と言えます。
では、「士師たちの時代」の末期、イスラエル人はどういう選択をしたか、です。これも興味深いところです。残念ながら、彼らは創造主に立ち返ることはしませんでした。王なる神を中心にして一つになることは欲せず、人間を「王」として立てることを望みました。イスラエルが周辺諸国の侵略を退け、国として存続するためには人間の「王」が必要だと思ったのです。神は、それは「独裁者」を立てることになる、と警告されましたが、イスラエル人は聞き入れませんでした。
ところで、21世紀も、地球温暖化や食糧難、パンデミックなどの難題解決のために「独裁者」を希求する傾向が強まっています。人間が各々自分を基準として考え、ばらばらになっていたのでは、社会、国家、民族、人類は生き延びられないからです。実際、民主主義、自由主義の国々は減少しています。また民主主義の国家の中でも、自由は制限されていきそうです。いや、全世界の独裁者を容認する日が近づいているのかもしれません。
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