創造主が万物の基準 vs 人間が万物の基準⑧

創造主が万物の基準 vs 人間が万物の基準⑧

Ⅱ 人間が万物の基準である(5)

 ④コヘレトの言葉・・・虚無主義

さて、「士師たち時代」から「王たちの時代」に移ります。この時代、「人間を基準とする」生き方は、もう一つの頂点に達します。「虚無」です。

「ダビデの子、エルサレムの王、コヘレトの言葉」。イスラエルでも最も知恵と知識と富とを極めた偉大な王コヘレトが、この世のあらゆる事々を味わい、探究して行き着いた結論です。それは空の空/空の空、一切は空である(1:2)でした。

コヘレトは、人間を万物の基準とする知識と知恵、活動、労苦、業績、富、人生のすべてが、一切無意味、無価値であることを悟りました。人間という存在そのものが虚無なのです。なので今なお生きている人たちよりも、すでに死んだ人たちを私はたたえる。いや、その両者よりも幸せなのは、まだ生まれていない人たちである(4:2)と説きます。生そもそも生まれ来ないほうがいいのです。人間を万物の基準として生きるなら、生きたことは生きなかったことと同じとなります。自分で幸福だと思おうが不幸だと思おうが、結局は「空の空」です。希望を見出そうとしても、絶望を思い知るだけです。

人間だけではありません。この世界も宇宙も、意味もなく存在しています。そして意味もなく、悠久に同じことを繰り返しています。存在してしまったから、しかたなく存在しているだけのこと、物憂い空間と時間です(現代では、それが139億年も続いているというのです)。

創造主を知らないなら、人間は自分が神のように生きるしかありません。自分自身を基準として、意味や価値や目的を見つけ出すか、自ら作り出すか、それ以外に方法はないのです。もちろん、何らかの意味を見出し、目的や価値を創り出せたとしても、それも結局は「空の空」です。すべて死が、虚無の中へと呑み込んでしまいます。それでも生きていこうとするなら、人間や世界には意味や価値があるかのように振舞うしかありません。そして、自分にも気付かれないように、自分自身を上手に欺くのです。その手段として生み出されたのが、哲学、芸術、音楽、スポーツ、ビジネス、娯楽です。ギャンブルや快楽だけではありません。どんなに高尚でアカデミックで知的な労働も、単なる暇潰しにすぎません。「空の空」の前には、何事もいっときのゲームであり、お遊びです。

人生は、自己欺瞞によって成り立っています。そして、自分を欺くことが上手な人ほど、無意味で空虚な人生を「健康に」生きていけます。自分を欺けず、空虚を正直にそのまま見つめてしまう人は心を病みます。しかし、繰り返して言いますが、両者とも行き着くところはやはり同じ「空」なのです。

『コヘレトの言葉』は、創造主を認められなくなった現代の人々の心にも、「永遠」という無限の空洞が巣食っていることを告げています(3:11)。むろん、人間にはその「永遠」を満たすことはできません。人間を起源とする何ものも、人間が人間を基準として生み出す何ものも、その空洞を埋め尽くすことはできないのです。それは人類の英知も、科学も思想も物的豊かさも一瞬にして呑み込み、無にしてしまいます。人間はそれが分かっていても、死ぬまで虚しい営みと努力を続けるほかありません。人類は滅びるまで「シーシュポスの岩」のような徒労を繰り返して、永遠の無の中に消えていくことになります。