創造主が万物の基準 vs 人間が万物の基準⑨

創造主が万物の基準 vs 人間が万物の基準⑨

Ⅱ 人間が万物の基準である(6)

 ⑤列王記、歴代誌の時代・・・偶像礼拝

さて、およそ五百年に及ぶイスラエルの王たちの時代は、偶像礼拝の時代でした。本来、イスラエルは唯一神信仰の民族であり、イスラエル起源の偶像神はありません。イスラエルの神は、偶像を作ること、偶像を拝むことを厳しく禁じておられました。しかし、イスラエルが獲得した「約束の地」は、カナンの七民族をはじめ、エジプト、ペリシテ、アラム、アンモン、モアブなどの民族を起源とする多様な偶像神に取り巻かれていました。イスラエル人は、そうした目に見える神々を慕い、偶像を作って、礼拝の場を用意したり、いけにえを捧げたりしたのです。

その五百年間は、イスラエルにとって偶像神との戦いでした。イスラエルの神はたびたび預言者を送り、偶像礼拝が国を滅ぼすことになると、繰り返し警告されました。それでも、彼らは悔い改めることがなく、北のイスラエル王国も南のユダ王国も滅びることになったのです。

ただ、イスラエルは、国の滅亡、首都エルサレムの陥落、民族の離散という歴史的大惨事を体験したことで、徹底的に偶像礼拝を断ち切りました。その後、ペルシャ、ギリシア、ローマ帝国に支配され、ユダヤ人たちはその大国の王や皇帝たちを神として礼拝するように強要されたこともありましたが、屈することはありませんでした。

偶像礼拝とは、創造神その方ではなく、神が創造されたものを拝むことです。天体(太陽、月、星など)や自然(山、川、海、動物、樹木、石、岩など)を崇拝の対象にします。人間がそれらに特別な力、超自然的な力があると認めて、畏敬するのです。また、人間自身も偶像になります。「人のかたち」に似せて、木、石、金属で神々の像や仏像を作ります。

先に、「人間崇拝」のところでも述べたように、偶像礼拝とは結局、人間が人間自身を拝むことです。人間が、人間を万物の基準として創作した宗教なのです。人間が、人間の視点で、力があり神聖だと認めて信頼を寄せるものは、すべて偶像です。

その意味で、現代は、形のあるもの、ないもの、さまざまな偶像に満ちています。民主主義、資本主義、自由主義、社会主義などのイデオロギーから、科学主義、進化説、人間至上主義などまで、人間が信頼を寄せているものは、偶像になり得ます。「憲法に保証された信教の自由を守らなければ、教会はまた信仰の自由を失ってしまう」という主張も、人間が制定した憲法を偶像視する危険性があります(信仰の自由は、神により頼むことです)。

もちろん、カネや知識、学歴や地位、さまざまな所有物も偶像になり得ます。人間作ったものだからです。

最近、最も脚光を浴びている偶像はスマホでしょう。現代人のスマホ依存は目に余るものがあります。いや、スマホ依存というより、スマホ礼拝です。何しろ、肌身離さず携帯し、一日に3、4時間は画面と向かい合っているのですから。道を歩くときもスマホに頭を下げ、周囲にかまうことなく拝む姿勢をとる人が絶えません。もうスマホなしには生活できないのです。スマホに洗脳され、スマホに仕え、スマホに従い、スマホの奴隷となっています。もはやスマホは単なる文明の利器ではありません。人間の心を支配し、人間を動かす「偶像神」です。

そして、今後、AIへの礼拝が本格化することでしょう。

ところで、現代のユダヤ教の正統派の人たちは、スマホという携帯電話は持っていても、奴隷にはなりません。彼らのスマホはネットにアクセスできないようになっており、安息日(土曜日)は電話さえできないのです。世俗をシャットアウトすることで聖さを保ち、偶像礼拝を阻止しています。