創造主が万物の基準 vs 人間が万物の基準⑩
- 2021.04.16
- 神基準 vs 人基準
Ⅱ 人間が万物の基準である(7)
2.古代ギリシアとローマの人間中心主義
アダム以来の「人間を万物の基準」とす系譜を受け継いだのが、古代ギリシアとローマです。それは、人間が作ったさまざまな神々があふれる世界、ヘレニズムと呼ばれる人間中心主義の潮流です。
1)古代ギリシアの人間中心主義
紀元前五世紀の哲学者でソフィストのプロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」と唱えましました。彼はこう言います。「すべてのものについて、人間が尺度である。存在するものについては、存在するということの、存在しないものについては、存在しないことの尺度である」。「人間は万物の基準である」ということになれば、人間が事物事象をどう見て、どう判断するかがすべてになります。多数の人間がそれぞれの主観(基準)で物事を判断するわけですから、多様な真実が生じます。真実の相対化です。
ギリシアの最も有名な哲学者であるソクラテスは、ソフィストの相対主義に対し、普遍的な真理を探究しました。しかし、そのソクラテスも「すべての知識の根拠は、人間の思考の内にある」「思考する人間が尺度である」という点では変わりありませんでした。「人間が、人間の使命が、そして人間の目的が世界の究極的目的であり、真理であり、絶対的なものである」という原理に立っています。
次いで、プラトンもプロタゴラスの「人間は万物の基準である」という立場を否定し、人間の感覚知を越えた客観的で普遍的な知識を追究しました。不可視で非物質的な超越的世界、イデアの世界を考え付いたのです。イデアは絶対的に完全で、究極的な存在論的原理であり、すべての事物事象はそれを複写しているというのです。また、イデアは合理的であり、人間の理性によってのみ理解されるとしました。このイデアは、やがて、神と結び付けられることになります。
しかし、イデアの世界も、結局は、プラトンという人間の知性が思いついた哲学的概念にすぎません。彼の頭の中に存在しているだけのことです。ヘブライズムの「神が万物の基準である」という立場からすれば、人間を万物の基準にしていることに何ら変わりありません。また、霊魂と肉体を峻別する二元論も同じく人間の発想です。
古代ギリシアの思想(ヘレニズム)は、基本的に人間に信頼しています。人間とは思考する理性であり、その人間理性が万物の尺度であり、価値基準になるのです。人間が理性でどう判断し解釈するかがすべてです。人間は真理を自分のうちに見つけ、自分自身の力で普遍的な真理に到達しなければなりません。人間理性から始まり、人間理性で合理的な真理を探究し、人間理性で完成させようとします。しかし、人類が滅びる日までにゴールに到達することはありません。
ついでに、古代ギリシアのアテネに芽生えた「民主制」にも触れておきます。女性や奴隷を排除した特権階級の市民に限られていたとはいえ、平等の参政権が与えられていたことは、当時の世界においてはかなり「進歩的」だった言えましょう。しかし、人間による僭主(独裁)政治を排除するために、人間による多数決の政治であったという意味では、まさしく人間を尺度とする政治制度です。
*誤解しないでいただきたいのですが、私は人間の知性や、科学や芸術、労働やスポーツや娯楽など、それ自体を否定しているのではありません。創造主を排除した文化、人間を万物の基準とした社会にあっては、それらは究極的には無意味、無価値であるといっているのです。
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