創造主が万物の基準 vs 人間が万物の基準⑫

創造主が万物の基準 vs 人間が万物の基準⑫

Ⅱ 人間が万物の基準である(9)

 3.古代の東洋思想

ここで少し、古代の東洋の宗教、思想にも触れておきます。

やはり、その中心となる原理は「人間が基準」でした。

インドのバラモン、ヒンドゥ教は、「人間が、人間に似せて、人間のかたちに、種々の自然神を造った」といえる多神教の宗教です。輪廻転生も、人間の感性や思考、体験や願いを基準にした発想です。

仏教もヒンドゥ教の流れの中にあります。ゴータマ・ジッタールダ(釈迦)が、菩提樹の下で瞑想を続けるという人間的な方法で真理を探究し、輪廻転生から解脱したことに始まります。

仏教は大乗仏教にしろ小乗仏教にしろ、自力本願にしろ他力本願にしろ、人間を基準にして構想された真理の世界です。宗教というより形而上学の哲学です。それゆえ、営々たる人間の思惟と努力によって、膨大な仏典が書かれることになりました。それは、西洋のヘレニズム哲学と宗教が、夥しい哲学書、宗教書を残してきたのと同じです(すべてがヘレニズムというわけではありませんが)。

仏教は、もともとは仏像を作ることには否定的だったようですが、アジア諸国に伝播されるうちに仏像が刻まれ拝まれるようになりました。日本へは最初から、仏典と仏像(釈迦如来像)が一緒に伝来しています(538年)。仏教はまさに、「人間が、人間に似せて、人間のかたちに、種々の仏像を作る」という偶像礼拝の宗教として始まりました。

中国の孔子の教え(儒教)もまた、「人間を基準」にした政治哲学です。孔子は最も崇高な徳として「仁」を唱えました。「仁」は人間愛を指します。聖書のヘセド、アガペー、仏教の慈悲に当たるとされますが、その漢字の構成を見てもわかるように、「二人の人」の間における愛のことです。人間同士互いに愛し合い、互いに関係を結ぶことではじめて人間性をもつ、と教えます。しかし、人間同士の愛ですから、どんなに気高くても限界があります。

孔子自身、「仁」を説きながらも、その限界にたびたびぶつかりました。それでも人間には「人間同士で互いに愛すること」しか、救いの道はないと考えていたようです(最後の日本の儒者吉川幸次郎による)。孔子は、「鬼神を敬してこれを遠ざく」と語ったように、神々や霊の世界は人間にわからないので、敬っても深入りはしないという謙虚な姿勢をとっています。人間理性の領域を越えないようにしていたのでしょう。

日本古来の宗教は神道です。神道は、縄文時代から始まったとされる、汎神論的な自然宗教です。森羅万象を崇拝の対象とし、擬人化した神々を礼拝(ライハイ)します。人間を起源とする典型的な偶像礼拝の宗教です。二〇世紀には国家神道として、天皇を現人神(アラヒトガミ)化するために利用されました。その意味では、「日本の、日本人による、日本人のための宗教」です。日本の「人間教」の真髄とも言えます。