創造主が万物の基準 vs 人間が万物の基準⑱

創造主が万物の基準 vs 人間が万物の基準⑱

Ⅱ 人間が万物の基準である(15)

 5.ヨーロッパ近代と啓蒙主義

4)虚無の時代

①人間理性の無力

二つの悲惨な世界大戦を経験したヨーロッパに、20世紀後半から、人間理性に対する失望と批判、そして反省が広がりました。理性は人間の心に巣食う欲望、怒り、残忍さを制御できず、むしろそれに加担し、狂気が吹き荒れるままにしてしまったからです。ヨーロッパのキリスト教会もそれを阻止できず、理性に信頼する無力さを露呈しました。

しかし、西欧社会が理性中心主義を批判しても、あるいは教会が理性を信頼してきたことについて自己批判をしても、「人間が万物の基準である」という立場を変えないなら、人間には理性以外に信頼すべきものはありません。つまり、理性に失望しようが、理性への信頼を批判しようが、その主体はどこまでも人間理性なのです。理性自身による理性批判であり、理性自身による反省であることには何ら変わりません。結局は、人間理性の限界を認めながらも、その理性に頼り続けるのです。

 

②虚無の時代の到来

ところで、ニーチェは「神の死」を宣告すると同時に、これから2世紀、ニヒリズム(虚無主義)がヨーロッパ社会を覆うであろうと予告しました。そしてそのとおり、ニーチェの死後120年たった現在も、ニヒリズムが支配する時代が続いています。「神殺し」をすれば、絶対的な価値体系は失われ、すべてが本質的に無意味、無目的になるのは当然のことです(ニーチェが予告したニヒリズムはヨーロッパのキリスト教社会に関してでしたが、そのヨーロッパ発の思想が世界を席巻することで、日本を含め、世界に浸透していきました)。

人間が生み出す価値や目的や倫理は、人間理性による世界解釈の産物にすぎません。絶対的な一つの真理というのはなく、あるのは多くの解釈のみです。つまり、ある民族、ある時代、ある文化、ある個人が世界をどう解釈するかで、異なった思想が出てくるのです。そして、いずれの思想も、自分の相対的正当性は主張できても、絶対性を唱えることはできません。すべて、「空の空」の上に築かれています。そして、時代の変遷とともに廃れ、消えていくのです。