創造主が万物の基準 vs 人間が万物の基準⑲

創造主が万物の基準 vs 人間が万物の基準⑲

Ⅱ 人間が万物の基準である(16)

 5.ヨーロッパ近代と啓蒙主義

4)虚無の時代

③すべては虚構

このように、「人間が万物の基準である」とするかぎり、どこまでいっても、すべては相対的解釈にとどまるほかありません。聖書の『士師記』の時代から三千年以上たっても、「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」という混沌状態から抜け出せてはいないのです。

西欧でポストモダンと呼ばれた20世紀の思想は、神中心の世界観、絶対的な真理を退けただけでなく、人間中心主義、理性中心主義、合理主義も虚構であるとして否定しました。いわく、「絶対的なものは存在しない」「事実は存在しない。あるのは解釈だけである」「普遍的合理性は虚構に過ぎない」「合理主義や理性中心主義は虚構である」「神中心の世界観は虚構だが、人間中心主義も虚構である」と。

人間理性による合理的思考は、結局、「多様な合理性」を導き出すのみで、すべては相対的になります。倫理も、自由、平等、人権も、共産主義、社会主義、民主主義も資本主義(貨幣)もすべて人間が考え出した虚構です。みんながそれを信じている限り成り立っている、いわば共同幻想です。宗教も無神論の共産主義も民主主義も資本主義もすべて、そうです。映画館で「スターウォーズ」や「ハリーポッター」「鬼滅の刃」などのファンタジーの世界に入っているとの同じく、私たちは、たとえば、民主主義国家という「大きな物語」の中に生きているのです。

ところが、そのようにすべて人間の解釈だ、相対的だ、虚構だ、共同幻想だと結論をくだしているのも、やはり人間であり、人間理性です。理性中心主義の絶対性を否定したとしても、否定している主体は人間理性にほかなりません。人間はこの循環(あるいは無限後退)から逃れることはできないのです。「人間が神のようになる」「人間が万物の基準である」というところにとどまっているかぎり、この循環から抜け出すことはできません。

それでも、人間の知性は、虚構や共同幻想を克服する方法を探求します。そして今日も、天才的な頭脳を持つ人々によって新たな哲学や思想(マルクス・ガブリエルの新実存主義や新実在主義など)が登場しています。しかし、それらの哲学や思想も人間理性の営為であることには変わりなく、一世を風靡してやがて過去のものになるでしょう。

どんな人間知性の営みも、結局は虚無には勝てないのです。