神の国の暮らし 感謝③

神の国の暮らし 感謝③

主が私を私に造ってくださったことに感謝する

私たちは、自分で自分を選んで生まれてくることはできません。国も 時代も、親も家庭環境も、性も、能力や性格も要望も選べません。生まれてきたら「私」だったし、物心つくまでの育ち方も選べません。

クリスチャンの中にも、親が嫌い、家庭が嫌い、自分の性格が嫌、顔が嫌・・・自分が嫌いという人が少なくないようです。そのせいか、以前、欧米の実存主義哲学や心理学の影響の中で、「自分の存在のあるがままを受け入れよ(自己受容)」「自分を好きになれ」「自分を愛せよ」という教えが、あたかも聖書からのメッセージであるかのように、キリスト教会にも広がりました。今も残っているようです。

こうした教えはクリスチャンの目を「自分」に集中させ、「自分」の虜にしてしまい。「自分」から逃れなくしてしまう弊害も出ました。実際、この教えに苦しんでいるクリスチャンの相談を何度か受けましたし、それどころか教会外からも「日本の社会に自己愛人間、自己中心主義の人間が増えている」という批判の本が出たこともありました。

私も若い頃は自分の存在が疎ましく、自分が嫌いで、大学時代は実存哲学にも走りました。自分に捕らわれていたのです。しかし、神の国で暮らすようになった今は、自分が好きでも嫌いでもありません。そもそも自分を愛しているかどうかにも意識を向けません。そういう意味においては自分から解放されています。

今はどうしているか。ただ、私の創造主、救い主であるキリストに心を向けます。主に受け入れられ、主に愛され、主に生かされていることに平安を見出しています。自分自身に目を向けても何もないからです。

かつて、「聖霊の力によって自分で自分を受け入れることができる」と信じたことがありました。しかし、いつまでも「自分」が頑張らなければなりません。なぜそこまでして「自分」にこだわるのか、なぜ自分が中心でなければならないのか、なぜ「自分が主体」でなければ気が済まないのか、と今は思います。主に愛され、主に知られていることで十分ではありませんか。

実際、主イエスは自分を捨てることを教えられ(マタイ16:24)、パウロは自分を愛することを罪に数えています(Ⅱテモテ3:2)。そのとおり、自分を捨て、自分に執着しなくなれば、楽になれるのです。

悔い改めとは向きを変えること、つまり、自分から目を離し、自分の創造主へと向きを変えることです。そうすれば、罪赦されて主に受容されているという平安の中に入れます。自分が自分に造られたことが自ずから喜びとなり、感謝できるようになります。

主が「私」を「私」に造ってくださったことが感謝できれば、そこから神の役に立つ者としての人生が躍動し始めます。「生きることはキリスト」(ピリピ1:21)であるというパウロの信仰が分かるようになります。