No.004 御子の栄光のために造られた
- 2019.11.27
- 三つのテーマで読む創世記(上)
創世記1章2節
地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
神が天と地を創造されたとき、最初にあったのは闇と水でした。
神は闇を創造されます(イザ45:7)。闇が世界の始まりでした(一日の始まりも夕であって、朝ではありません)。それゆえ、闇、即悪というわけではありません。闇は、たんにまだ光のない状態です。その茫漠として形のない闇の状態から、父、御子、御霊(神の霊)が、秩序ある世界に造り上げられます。それが、神の支配される世界(神の国)です。
さて、1章1節では、神が天地宇宙を創造したと宣言されましたが、ここでは、誰のために創造されたのかを、明らかにしておきます。これも大切な問いかけです。
天地万物は神の御子キリストのために造られました。
この世界は誰のために造られたか。それは、第一に御子のためです。聖書はこう語ります。「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです」(コロ1:16bc)。父、子、聖霊が唯一の神として、御子の栄光のために天地万物を形造られました。
それゆえ、神の国の主人公はキリストです。
間違えてはならないのは、この世界は人間の栄光のために造られたのではないということです。バベルの塔を建てた人々のように、「(我々の)名をあげよう」(創11:4)と言い出してはなりません。人間は世界の主人公として造られたのではないのです。神の国の歴史はキリストを中心に展開していくのであり、キリストの栄光がゴールです。この神の計画は不変です。神の計画、歴史、キリストの栄光は、最終的にキリストによって成就されます。それ対抗して、人間が人間自身の栄光のために、自分の考えで、世界を動かそうとするなら、悲惨な結果を招くことになります。
私たちが神の国に暮らしているのも、キリストの栄光を現すためです。
もし私たちが自分中心に生きるなら、小さな自分をさらに小さく生きるだけのことになります。自己実現のためにどんなにがんばっても、小さな世界で一瞬輝くだけにすぎません。しかし、キリストの栄光のために人生を捧げるなら、小さな自分を最大限に生かすことになります。神の国は、「自分」という狭い枠を取り外し、神の計画と基準に沿って暮らすべき世界なのです。
今は、この2節のように、茫漠として何もないようであっても、あるいは闇に包まれて何も見えないようであっても、神の国は胎動しています。やがて、キリストの栄光を現すべく、躍動し始めます。神の壮大な計画のスタートです。
-
前の記事
No.003 あなたの創造者を覚えよ 2019.11.25
-
次の記事
No.005 ことばと水と光で生きる 2019.11.29