No.013 人に『いのちの息』を吹き込まれた
- 2019.12.18
- 三つのテーマで読む創世記(上)
創世記2章7節
神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
人は塵で造られました。「神に似せ」られ、「非常に良かった」という宣言を受けてはいますが、塵で造られています。他の動物と同じ物質です。そのことを忘れてはなりません。人が尊いのは、神といのちでつながっている限りのことであって、人という存在自体が尊いのではありません。神とのつながりを断ち切れば、ただの塵にすぎないのです。尊さの根拠は、神の愛にあります。自分は自分自身で尊いなどと思い上がるな、ということです。
やがて神に反逆したときに、その事実を思い知ることになります。そのとき、神からこう告げられます。「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」(創3:19)。伝道者(コヘレト)もこう告げています。「人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る」(3:19-20)。「神のかたち」だからといって、人としての分を越えてはならないのです。
それでも神は、塵で形造った人に、「いのちの息」を吹き込んでくださいました。「いのちの息」が吹き込まれて、人は生きる者になりました。単なる肉のいのちではなく、神とつながるいのちを持ったのです。人は「神のかたち」として、神といのちでつながり、神を知り、神と交わることができます。主イエスが語られた「永遠のいのち」(ヨハ17:2-3)を最初の人は持っていたのです。
同じ塵から造られても、人はこの点で他の動物とは決定的に異なります。ヨブ記の中で、エリフがこう語っています。「人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える」(32:8)。人は創造者と交わることで、自分が何者であり、何のために生きるのかを知るのです。
「霊的いのち」「永遠のいのち」とは、創造主なる神とつながっていて、神と交わる力があるということです。人が尊いのは、いのちで神とつながり、神に愛されているからです。このいのちがあるから、人は神に祈り、賛美します。そして、そのいのちを養うのが、「神の口から出る一つ一つのことば」なのです。
キリストは、罪のために神から切り離されて死んでいた私たちに、「永遠のいのち」を回復してくださいました(ヨハ3:16)。今、私たちは神とつながり、生きています。その喜びと感謝を、礼拝で表現します。そして日々、聖書を学び、祈ることで、神とのつながりを強くしていきます。やがて、完全に「神のかたち」を取り戻し、栄光の体に変えられる日が来ます。
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