No.015 主は人に命じられた
- 2019.12.23
- 三つのテーマで読む創世記(上)
創世記2章16、17節
神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
神は「見るからに食べるのに良いすべての木」(9)を用意し、「思いのまま食べてよい」と告げられました。エデンの園の豊かさを、「思いのまま」心ゆくまで楽しむ自由を与えられたのです。自分の意志で選び、自由に行動してよいのです。
人は環境に条件づけられ、本能だけで行動する生き物でも、プログラムされた通りに機械仕掛けで動くロボットでもありません。人は神に似て、自由です。自由が人を人らしくしています。自由がなければ、人には喜びがありません。
しかし同時に、神は人の自由に枠を定められました。すなわち、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」という命令です。人は、神の命令に従い、神の領域を侵さず、神の支配の枠にとどまる限り、自由です。むしろ、神の支配を受け、神の定めた善悪の基準にとどまることが、人の自由を保証する、と言っていいでしょう。
スポーツからルールを取り去ったら、もはやスポーツではなく、単なる混乱、喧嘩になってしまいます。ルールやゴールが明確だから、スポーツは楽しいのです。自由も、倫理や目的という枠を取り払えば、単なる身勝手、放蕩になってしまいます。主が定められたルールや目的がはっきりしているからこそ、むしろ人はその枠内で自由に行動できるのです。主の命令の枠を越えて自由を行使すれば、かえって自由を失います。もしビルの屋上にフェンスがなければ、怖くて自由に歩き回れないではありませんか。それと同じです。
神はさらに、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と警告を付け加えられました。神の命令を破るなら、人は「神のいのちの支配」から「死の支配」に下ることになります。神と人との違い、それは、人は死ぬ可能性がある、ということです。人は神に似ていても、神に反逆すれば死にます。死ぬとは、いのちの源である神から切り離されることです。たましいは神とのつながりを絶たれ、自分の存在の意味や目的や尊厳を喪失し、やがて滅びます。体も、幹から切り取られた枝が枯れるように、やがて腐り果てます。
それゆえ、神はアダムに、「善悪の知識の木から取って食べるか、食べないかは、あなたの自由である」と言われたのではありません。「食べてはならない」と命じられたのです。自由は、「善悪の知識の木の実」を食べるために与えられたのではありません。「食べてはならない」という命令に従うために与えられたのです。神の命令は選択肢ではないのです。
「あなたは神のかたちに造られていて、非常に良いもので、自由である。しかし、あなたを造られた神を畏れよ。いのちを育め。死ぬな。いつまでも神の国にとどまり、その祝福を喜び楽しめ。」それが主の命令であり、願いです。
これが、最初の人アダムが全人類を代表して神と結んだ契約です。アダムが一度でも違反すれば、全人類に死が入ることになります。完全なる人アダムは、神の国の祝福とともに、大きな責任を背負ったのです。
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