No.018 裸でも恥ずかしくない

No.018 裸でも恥ずかしくない

創世記2章25節
人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

ふたりは、なぜ裸でも恥ずかしくなかったのでしょうか。

ふたりは「非常に良い」ものであり、罪がないので、見られて恥ずかしいものが何もありませんでした。心の中にも隠すものは何もなく、造られたままの姿で暮らせました。罪がなければ、恥ずかしいという感覚は生じないのです。恥ずかしいとは、罪の汚れに対する良心の反応です。

自分の内側にも外側にも、見られて恥ずかしいものが何一つない、というのは、なんと平安で楽なことでしょう。自分を自分以上に見せかける努力も要りませんし、自分を隠す必要もありません。自分を守るために嘘をつかなくても済みます。

仮に欠点があったとしても、互いに愛し合って一つになっているので、裸であることが居心地を悪くすることはなかったことでしょう。

また人は、互いに自分を隠さずに済んだだけでなく、神に対しても隠れる必要がありませんでした。神の怒りを恐れることもありませんでした。神に見られていることは、この上ない喜びだったのです。

そして、もう一つ。裸とは無防備だということです。人は神に信頼するかぎり、神に守られ、無防備状態で生きることができました。自分で自分を守る必要がありませんでした。自己防衛、自己正当化、弁解、言い訳などとは無縁でした。誰からも責められることがありません。真の安全保障です。

これこそが、神の国の本来の暮らしです。

今、私たちの住む社会は罪が支配していますが、それでも、そのただ中に、神の国が来ていることは来ています。水蜘蛛は、水中に酸素スポットを作って棲息しています。私たちは、この世の霊(Iコリ2:12)が覆っている社会で、神の国の小さなスポットをつくって生きています。そこでは、ある程度、「裸」になれます。無意味に自分を自分以上に見せかけなくても済みます。自分を隠そうとして、見栄を張ったり嘘をついたりする必要もありません。自己防衛的にならず、キリストに受け入れられた者として、互いを受け入れ合うことができるのです。

神の国は、罪赦された者たちが、キリストに愛されたように互いに愛し、赦し合う世界です。