No.020 罪の起源……サタンの国の侵入……神基準から人間基準へ
- 2020.01.03
- 三つのテーマで読む創世記(上)
創世記3章1-6節
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。(5)
神は人に、「思いのまま」にこの世界を喜び楽しむ自由を与えられました。しかし、それは無制限な自由ではなく、神の領域を侵さず、神が定めた目的、務め、基準の枠を超えてはならないという条件がありました。それが、「善悪を知る木からとって食べてはならない」という命令です。しかし、人は、「蛇」に唆され、その禁を破ってしまいます。
「蛇」は、サタンの国(サタンの支配)の象徴的存在です。その支配勢力がエデンの園(神の国)に侵入したのです。「蛇」は女に近づき、その木の実を食べても「決して死なない」と欺き、「あなたがたは神のようになり、善悪を知るようになれるのだ」と誘いました。女はそれを食べてしまいます。
「善悪の知識の木からとって食べる」とは、神に代わって、人間自身が「神」にようになるという選択です。
自分の感覚で物事を判断し、自分の知性で善悪の基準を定め、事物の価値や意味を決めていく、という意志を表明したのです。人間は神に似せて造られ、本来は、神に倣って生きるべきものでしたが、その生き方を返上したことになります。神の権威を退け、「人間自身が万物の基準になる」のです。「食べるな」という命令に反し、「食べる」ことを選択した人間は、以後、神の命令を服従の対象ではなく、選択肢の一つと見なすようになります。
これが人間中心主義の生き方、哲学、思想の起源です。人間は自分の目に正しいと思うことを行い(士21:25)、自分の欲望の命ずるままに生き、自画自賛するようになっていきます。サタンの仕組んだ罠にハマったのです。
このように神の存在を無視すること、自分が神のようになること、それが罪の起源です。神が「善悪の知識の木からとって食べてはならない」と命じられたのは、人が神とのつながりを保ち、いつまでも祝福されるためでした。主が許された「思いのまま」という自由は、神の愛と命令にとどまることが前提でした。しかし、「蛇」が神の愛を疑わせ、人は神の愛と命令を拒絶したのです。こうして、自分の知性と愛の力を過信し、神に従わずとも自分で幸せになれると思い込みました。罪と死の歴史の始まりです。
それは、神の国とサタンの国の地上における戦いの始まりでもありました。人類の歴史は、神とサタンのどちらが人間を支配するかの攻防です。
神の国は神が中心であり、神の言葉が万物の基準です。一方、サタンの国では、人間中心であり、人間の考えが最高位の判断基準です。サタン自身は姿を隠します。そして、人間に唯一真の創造主なる神を否定させ、自分が基準となって生きるように仕向けます。そのように人間を欺くことがサタンの戦略です。
人間基準の考え方は、理性中心主義、相対主義、多元主義、懐疑主義、無神論、虚無主義、自民族中心主義、自己中心主義……など、その時代、その社会、また個人によって異なる、様々な主義主張を生み出していきます。
しかし、神の基準は永遠で不変です。
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