No.021 神の国の自由とサタンの国の自由
- 2020.01.06
- 三つのテーマで読む創世記(上)
創世記3章5、6節
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」……それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(5、6)
神の国の自由とは、神の豊かさを思うままに味わえることです。
しかし、何をしてもいいという自由ではなく、神を基準にするという枠がはめられています。いや、その枠に守られているからこそ、安心して思いのまま行動できるのです。フェンスがなく境界も曖昧な校庭では、生徒は不安で思いのまま遊ぶことはできず、かえって縮こまってしまいます。フェンスに囲まれているからこそ、境界ぎりぎりまで広がって遊べます。神の国も自由も同様です。
神の国の自由は、人が地を治め、世界を祝福するという目的のために、神から付与されています。
つまり目的のある自由です。自由は目的を達成するためにあるのです。ルカ15章の「放蕩息子」のように、お金と時間を自由に使えても、目的がなければ、その自由は人を堕落させます。出エジプトしたイスラエルのように、エジプトの圧政から解放されても、約束の地というゴールを見失ったら、律法を無視し、主に反逆して滅んでいくことになります。目的があってこそ、自由は躍動する力となるのです。
つまり、神の国では、自由と目的は一つです。忘れてはなりません。神の国の自由は、神の目に正しいことをする、という目的のためにあるのです。この自由は「奨学金」に似ています。「奨学金」は勉学のためのお金であって、何に使ってもいいお金ではありません。「奨学金」をその目的のためだけに用いれば、学問が身に付きます。しかし、その目的を無視して、快楽のために使えば、落第することになります。神の国の自由は、正しく用いれば、神の栄光を現すことになります。
しかし、人間は「神のようになりたい」と欲し、神の定めた基準と目的に違反してしまいました。神の愛を無視し、神の基準という枠から脱することが自由だと思ったのです。神から自らを切り離した人間は、これ以降、自分が創造された本来の目的を見失ってしまいます。自由は無目的となり、やがて自由を得ること自体が目的化します。そして、自由を得たとしても、その自由で何をすべきなのかわからず、ただ欲望に身を任せるだけのこととなるのです。こうして、人生は、死に向かって進むだけの空虚なものと化します。これがサタンの国の自由です。サタンが人間を罪と死の奴隷にしたと言っていいでしょう。
基本的に、神の国の自由が、罪と死からの自由であり、神の栄光のための自由であるのに対し、サタンの国の自由は、神の基準(教え)からの自由であり、人間の欲望のための自由です。前者は神の支配を受けることが自由だと感じ、後者は罪の支配の中にいることが自由だと思い込みます。罪に支配される者は、自分の欲望実現を追求し、その邪魔になるものを排除しようとします。しかし、神の支配を受ける者は、御心の成就、神の国の実現を求めるのです。
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