No.024 神に反逆した結果① 罪人は恥ずかしくて自分を隠す

No.024 神に反逆した結果① 罪人は恥ずかしくて自分を隠す

創世記3章7節
「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」

 
罪を犯し、目が開かれて、自分が裸であることを知った人間の最初の行動は、「腰を覆った」でした。裸でも恥ずかしくなかった二人が(2:25)、裸を「恥ずかしい」と感じたのです。「恥ずかしい」という感情こそ、罪に対する直接的な反応です

人は、神に似せて造られた本来の自分と、罪人となった現実の自分とのギャップを知り、苦しみます。もはやありのままの姿をさらしては生きられなくなりました。

人がとった行動は、「いちじくの葉」という姑息な手段で、「恥ずかしい」と感じる部分を隠すことでした。この行動は、以後、罪人の習性となります。自分の罪を隠すために、無意識のうちに、反射的に、ときには平気で、嘘をつきます。心の疚しさを押し殺し、恥ずかしさを忘れようとします。自分の内面の葛藤や惨めさが外に現れ出ないように、顔の表情や態度を繕います。

また、単に隠すだけでなく、自分を自分以上の何者かに見せかけることもします。善人を装うだけにとどまらず、「自分は罪人ではない。善良無垢な人間なのだ」と本気で思い込もうともします。見栄も張ります。能力があるかのように見せかけるのも、富や学歴や地位や業績を人に誇りたがるのもそうです。衣装や美容や整形に大金をかけたがるのもそうです。人の罪を暴いて喜び、悪口を言って鬱憤晴らしをするのもそうです。

このように罪人は、恥ずべき本当の自分が現れ出るのを恐れ、必死で覆い隠そうとする悲しい生き物になってしまいました。

それだけではなく、神の守りから外れたため、自分で自分を守らなければならなくなりました。裸であるとは、無防備だということでもあります。人から攻撃、批判されることを恐れ、壁や砦を築くようになります。ときには専守防衛的にもなります。自分は悪くない、悪いのは相手だ、という自己防衛本能です。いつも不安なのです。その不安の中で考え、不安に駆られて行動します。不安と恐れが生活の起点になってしまったのです。

これが、神の国の祝福を失った人間が体験する、サタンの国の暮らしぶりです。
しかし、神はそんな男と女を憐れみ、「皮の衣」を作って着せてくださいました(21)。彼らが自分で綴り合せた「いちじくの葉」は、すぐに枯れてしまいます。それで隠せるのは、部分的であり一時的でした。一方、「皮の衣」は神の守りであり、神が罪人を見捨ててはいないというしるしでした。「皮の衣」はまた、神が独り子キリストを送り、神の国の暮らしを回復されることの予告でもありました。

今、私たちはその予告どおり、キリストの恵みを受け、主に守られ、自分を自分以上に見せかける必要もなく、神の国の平安を享受しているのです。

最後に、「恥ずかしい」という感情が生じたことは、主の憐れみだと思います。その感情が罪を制御し、悔い改めへと導くからです。罪を犯して恥じることがなくなれば、人は恐れずに何でもするようになります。そうして悔い改めることがなくなれば、主も滅ぼさざるをえなくなるのです。