No.026 神に反逆した結果③ 責任転嫁、自己正当化をする

No.026 神に反逆した結果③ 責任転嫁、自己正当化をする

創世記3章11—13節
すると、(主は)仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

男は、善悪を知る木の実を食べてしまったことを女のせいにしました。妻のことを、「私の骨からの骨。私の肉からの肉」(2:23)と大喜びしていたのに、です。しかも、それだけでなく、妻をくださった主のせいにもしました。もともとは主が悪いのです、と言わんばかりです。そして、女もたまらず、自分を騙した蛇のせいにしました。

これが責任転嫁の起源です。以降、責任転嫁や自己正当化は、人の性癖となりました。何かしくじったり悪事がばれたりすると、反射的に弁解、言い訳、責任転嫁の言葉が口をついて出てくるのです。この習性を受け継いでいる私たちもやはり、自分の失敗を他人のせい、社会のせい、国のせい、神のせい、遺伝子のせい……にしたがります。素行が悪いのは家庭環境のせい、成績が悪いのは学校や教師のせい、職をすぐ辞めるのは会社や上司のせい、結婚生活がうまくいかないのは配偶者のせい、成功できないのは時代のせい……世のあちこちで「悪いのは私ではない」という大合唱が起こります。個人だけでありません。国家も「悪いのは隣国だ」と自己正当化して、非難したり戦争を仕掛けたりするのです。

こうしてサタンの国では、個人も国家も自分の正義を主張し、犠牲者、被害者になりたがります。そして復讐を自己正当化します。

でも、責任転嫁をする人にはまだ希望がある、と言っていいかもしれません。というのは、良心が残っているからです。神のかたちに造られた人間には良心があり、その良心が罪責感に堪えられなくなって責任転嫁をするのです。「悪いのは私ではない。悪いのは私以外の誰かだ」と思い込むことで、良心の呵責を軽減したいのです。良心が生き残っていなければ、弁解もしないで、常に平気で悪を行うことでしょう。

もちろん、神が良心を残してくださったのは、責任転嫁するためではありません。罪を告白し、悔い改めて主に立ち返るためです。それが神の国での良心の用い方です。

ところで、自己正当化でよく使われる言い訳に、「知らなかった」というのがあります。最初の人アダムもエバも、「まさかこんなことになるとは知らなかった」と言いたかったことでしょう。人間はたいてい、自分のしていることがわからずに罪を犯し、後で事の重大さを思い知ります。それが罪人の愚かさ、惨めさ、悲しさです。

しかし、「最後のアダム」(Ⅰコリ15:45)であるキリストは十字架上で、「彼らは、何をしているのか、自分でわからない」(ルカ23:34)ことを理由にして、その罪の赦しを父なる神に嘆願してくださいました。この憐れみに触れれば、私たちの良心は、おのずから悔い改めに導かれるはずです。