No.030 エデンの園追放

No.030 エデンの園追放

創世記3章22—24節
神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

「善悪を知る木」から取って食べた人は、主が「われわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった」と言われるほどの、危険な存在になりました

人間は「神に似せて」「神のかたち」に造られたので、知性と能力が高く、また地と生き物を支配する権威を与えられたので、大きな力を持っています。さらに、自分の意志に従って行動する自由も与えられています。本来、主に祝福され「非常に良いもの」であった人間が、神に反逆して、サタンの国の側に回ったならば、この世界にとってはまさしく大きな脅威となります。

そんな人間が「いのちの木からも取って食べ」、永遠に生きるようなことにでもなれば、大ごとです。罪と悪が地上に限りなく蓄積されていくことになります。主は、そうさせないために、人間をエデンの園から追放され、二度と戻れないようにされました。こうして人の罪悪は、どんなに恐ろしい悪人でも一代限りで終わりということになったのです。人間が百歳に満たずに死ぬことは、人類全体と自然界にとってはありがたいことです。主がエデンの園から人間を追放されたことは、むしろ主の憐れみです。

しかしそれでも、人間は恐ろしい罪の力を宿したことには変わりありません。個人個人も破壊的な性質を秘めています。実際、ノアの時代には、地上に人の悪が満ち、主も人類を滅ぼさざるを得ないところまでいきました。ましてや今は、人間は神の手を借りなくても、核兵器で人類全体を何度でも滅ぼせるようになりました。たった一人の狂気で、この地球を死の世界にできるのです。人類は、主の憐れみさえも無にして破壊に向かう罪の恐ろしさを、それが現実になる前に思い知るべきなのです。

さて、人は追放されて、放浪者になりました。けっして、旅人などというロマンティックなものになったのではありません。旅人には帰る家がありますが、追放者には帰る故郷はありません。罪と死の支配する世界で、不安におののきながらさまよい、野垂れ死ぬことになるのです。

そして最終的に待っているのは、永遠の死の世界です。そこにあるのは、たましいの永遠の孤独、暗闇、渇き、苦しみです。しかし、現世のように、その苦しみを忘れておくための気晴らしの手段や酒やドラッグはありません。

しかし、主の憐れみは尽きたわけではありません。主は人間をあきらめることなく、回復の道を用意しておられます。