No.031 神とのつながりの回復の道
- 2020.01.29
- 三つのテーマで読む創世記(上)
創世記4章1—5節
ある時期になって、カインは、地の作物から主への捧げ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとその捧げ物とに目を留められた。だが、カインとその捧げ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。(3—5)
主は、エデンから追放したアダムの家族に、ご自分と再びつながり、祝福を回復し、神の国で暮らす道を用意されました。それは主への「捧げ物」による礼拝です。
アダムの子カインは「土を耕す者」、弟のアベルは「羊を飼う者」となり、それぞれ主への捧げ物をします。主はアベルの捧げ物を正しいと認め、受け入れてくださいました。アベルは主とのつながりを回復したのです。しかし、カインの捧げ物には目を留められませんでした。二人は、何が違ったのでしょうか。
アベルは、「羊の初子」の中から「最上のもの」を持って来ました。最初の最良のものを、喜んで捧げたのです。それが主に喜ばれ、良しとされました。へブル書は「アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました」(ヘブル11:4)と述べています。ということは、カインが捧げた物は、最初のものでも、最良のものでもなかったということです。
アベルは主の視点で、主の心に沿って、自分が得た最高のものを捧げました。つまり、自分自身を「聖い、生きた供え物として」(ロマ12:1)お捧げしたのです。それが正しい捧げ方であり、主に受け入れられる礼拝です。一方、カインは主の心を無視し、自分の基準で、この程度でいいだろうというものを捧げました。自分自身を捧げていないので、「霊的礼拝」(同)にはなっていないのです。
主なる神を愛するとは、主だけを唯一なる神として愛することです。同時に、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」(申6:5)主を愛することです。主以外に、同じように愛するものがあっては、主を愛したことにはなりません。また主だけを愛すると言っても、自分のすべてを尽くさなければ、やはり愛したことにはなりません。カインのように、神を神とせず、自分の都合を最優先にし、最初で最良のものは自分のものとし、二番目に良い物で間に合わせるなら、神を愛するどころか、神を冒涜することになるのです。カインの捧げ方は偶像礼拝や御利益崇拝につながっていきます。
自分を基準とし、自分の方法で、自分のために生きるのが、サタンの道でした。カインはそのサタンの道を歩み始めました。ユダの手紙は、「カインの道を行く者」は忌まわしい人たちであり、滅びにいたる(11)と告げています。
罪の支配下にある人間が神の国に帰る道は、神を基準とし、神の方法に沿って、自分自身を主に捧げることです。アベルはその正しい道筋を最初に示しました。その道は今日も変わりません。
こうしてアベルは神の国を受け継ぎ、カインはサタンの国を開いていくことになるのです。
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