No.043 ノアの洪水と神の国再興⑥ 血を流す世界

No.043 ノアの洪水と神の国再興⑥ 血を流す世界

創世記9章1-7節
わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。(5、6)

洪水後も、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ」という主の祝福は変わりません(1)。生き物が人の管理に委ねられていることも同じです(2)。

ただ、肉食が許可されました。エデンの園では、人と他の動物の間に調和がありましたが、人が創造主に反逆したことで、その調和が崩れ、ついに肉を食べるところまできたのです。動物は人を恐れておののき、一方、動物も人を襲うようになります(2、5)。これからは人が人の血を流すことも、珍しくはなくなります。「血を流す世界」が始まるのです。

神は、そんな世界で、どのように人の尊厳を守られるのでしょうか。

それは、人のいのちを奪おうとする者に、神の裁きを恐れさせることによってです。神は人の血を流す者に、血の値を要求されます。殺人は「神のかたち」を破壊する行為であり、人の尊厳を冒す以上に、創造者である神を冒涜する行為です。殺人者は自分のいのちを神に差し出さなければなりません。「いのちにはいのち」です。いのちは、いのち以外のものでは償えません。これが主の定められた「いのちの尊厳」の基準です。このようして人が互いを「神のかたち」として尊く扱い、殺人を畏怖するようにされました。

たとえ国家が、人間の知恵や思想で死刑制度を定めようと廃止しようと、「いのちはいのちで償う」というのが、神の定めた厳粛な原則です。人は人の創造者ではないのですから、勝手に「いのちにはいのち」という原則を廃棄することはできません。それは、神に対する越権行為、冒涜です。

人間が尊い根拠、それは創造主である神にあります。人間のいのちが尊いのは、神が人間を「神のかたち」に造り、所有し、愛されるからです。これに尽きます。

仮に創造主が存在せず、ただ分子と分子の偶然のぶつかり合いで生命が生じ、人間にまで進化したのであれば、人間は尊い存在だという絶対的な根拠はありません。死んで物質に戻るだけです。偶然に存在して無に帰するような生命に、何の意味も尊厳もありません。

聖書は、人間の尊厳や価値を生み出すのは愛だと教えます(Iコリ13:1-3)。しかし、永遠の愛で人間を愛することができるのは、神だけです。

神は、実に、その独り子を与えるほどに、人間を愛されました。「いのちにはいのち」だからこそ、神は独り子キリストのいのちを、罪のために死ぬべき私たちに与えてくださったのです。この原則を否定するなら、キリストが十字架にかかり、血を流して、わざわざ罪人の身代わりになる必要などなかったことになります。

神は、いのちにはいのちを要求することで人間の尊厳を守り、独り子のいのちを罪人に与えることで人間の尊厳を回復してくださいました。この独り子を与えるほどの神の愛が、私たちの尊厳を保証しているのです。