No.045 ノアの洪水と神の国再興⑧ 神の国の祝福はセムからアブラハム、キリストに

No.045 ノアの洪水と神の国再興⑧ 神の国の祝福はセムからアブラハム、キリストに

創世記9章20—29節
ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。(21-23)

ノアは箱舟から出たのち、ぶどう畑を作る農夫となりました。

大きな危機を乗り越えた後の気の緩みなのでしょうか。人も町も滅んでしまった光景を見て虚脱感に陥ったのでしょうか。それとも、すべてを一から始め直さなければならない不安に襲われたのでしょうか。ノアはぶどう酒に酔い、裸になって正体を失うという醜態を演じました。

末の息子ハムは、父の失態を目撃し、意地悪な思いで二人の兄に告げました。そのことが、ハムの息子カナンの家系が呪いを受けることになります。「神と共に歩んだ」義人の父の失態を見て、心の中で密かに快感を覚えたのかもしれません。

人間には、「正しい人」が小さな罪や失敗を犯すと、心密かに喜ぶ性質があります。そして、それを人に告げたくなる性質もあります。「正しい人」の九十九の正しさよりも、一つの失敗を見つけて、鬼の首でも取ったかのように得意げに言いふらします。いかにも同情しているように話しても、内心は喜んでいるのです。心の奥に妬みや憎しみが潜んでいるからです。

妬み、憎しみ、告げ口は、サタンの性質と働きです。それが、ハム=カナン一族の呪いとなりました。カナンから出た民族は、やがて偶像礼拝に走り、「サタンの国」に属するものとなり、やがて滅ぼされることになります。

一方、セムとヤペテは父の恥を見ないようにして、着物で隠しました。父の醜態を見ないふりをしたのではなく、実際に見ないようにしたのです。父の虚脱感、不安を理解しようとしたのでしょう。父は、二人のその子孫を祝福します(26、27)。

「愛は多くの罪をおおう」(Iペテ4:8)。それが「神の国」の祝福です。その祝福はセム、ヤペテが受け継ぎます。そして、セムからアブラハムと「神の民」イスラエルへ、そしてキリストへと継承されていきます。セムの祝福は、イスラエルと教会の源流です。

ところで、キリストはペテロたちの罪を見ないで、弟子にされました。マグダラのマリヤや姦淫の現場を捕えられた女たちを憐れみ、その罪を見られませんでした。取税人ザアカイの罪もご覧にならず、彼の家に宿られました。そして、私たちの罪も見過ごして、私たちのうちにお住まいくださいました。キリストの十字架の愛は、多くの罪を覆いました。

それに対し、「ハムの行為」というのは、キリストがいのちを投げ出してまで覆い隠された人の罪を、わざわざ暴いて告発するサタンのわざです。

ノアの家庭で起こった小さな事件ですが、罪を暴くか覆うかが、兄弟の別れ道になりました。同じところからスタートしても、「神の国」か「サタンの国」か、祝福の人生か呪いの人生かのいずれかに分かれたのです。